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第23話 仕事のあと
五階の大型スタジオには、朝からいつもより多くの人が出入りしていた。
Ridgelineと澄川律のコラボ映像撮影。海外向けの素材も兼ねているらしく、撮影スタッフだけでなく、音響、照明、制作進行、外部スタッフまで入っている。
真壁修司は警備側として、搬入口からスタジオまでの動線と入退場を確認していた。
撮影が始まれば、警備が前へ出る必要はない。入っていい人間だけが入り、止めてはいけない場所が塞がれなければいい。
スタッフ証を確認しながらスタジオ内へ入ると、照明はすでに落ちていた。
中央には相沢涼。その後ろに凪隼人と紫月颯がいて、横に澄川が立っている。
真壁は出入口脇へ位置を取った。
ライブで見る澄川とも、三階のラウンジで音を合わせていた時とも違って見えた。カメラの前に立つことまで含めて、すでに仕事になっている。
撮影位置が変われば立つ場所を変え、短い指示が飛べば一度で拾う。余計な動きはなく、それでもカメラが回った瞬間、どこへ視線が集まるのかは分かった。
相沢が歌い、凪のギターが入る。そこへ澄川の声が重なった。
真壁には音の細かい設計までは分からない。ただ、モニター前にいたスタッフが同じタイミングで画面へ顔を寄せた。
テイクが止まると、すぐにスタッフが入り、立ち位置と照明が調整される。澄川は必要な指示だけを聞き、自分から余計な確認は挟まない。愛想を振りまくわけでもないのに近寄りがたいわけでもなく、求められている仕事を分かっている人間の立ち方だった。
真壁はそれを見ながら、妙な感覚を覚えた。
数日前、自分の家で付き合うことを決めた人と同じだった。
今は、真壁がいなくても何の問題もなく、自分の場所に立っている。
当然のことだった。
澄川には澄川の仕事があり、真壁には真壁の仕事がある。
「真壁さん」
呼ばれて振り返ると、神谷駿が搬入口側から戻ってきた。
「外部スタッフ、あと二名です。搬入が終わったら入口側、俺が見ます」
「お願いします」
神谷は頷き、すぐに持ち場へ戻っていく。
真壁もスタジオから視線を外した。
*
撮影が終わったのは夕方だった。
警備側の確認を終えた頃、私用のスマートフォンにメッセージが入っていた。
《見てました?》
送信時刻は、撮影終了のあとだった。
真壁は返信する。
《警備です》
すぐに既読がついた。
《でも見てた》
真壁は画面を見てから、
《見ていました》
と返す。
《どうでした?》
また聞いてくる。
澄川は、真壁が自分の仕事をどう見るかをよく聞く。
《すごかったです》
返事が来るまで、今度は間があった。
《それならいいです》
続けて、
《終わりました?》
《もう少しです》
《今日、真壁さんの家行っていいです?》
真壁は画面を見る。
以前なら、何をしに来るのか聞いていたと思う。
今日は聞かなかった。
《どうぞ》
《行きます》
*
澄川が来た頃には、外はもう暗くなっていた。
玄関へ入る動きにも前ほど迷いがない。靴を脱ぐ場所も、上着を置く場所も覚えていて、真壁が飲み物を用意して戻る頃には、澄川はすでにソファへ座っていた。
隣が自然に空いている。
真壁はそこへ座った。
澄川はカップを受け取りながら、こちらを見る。
「今日、見てましたよね」
「警備です」
「それはもう聞きました」
真壁は返さず、自分のカップへ口をつける。
澄川は待ってから、もう一度聞いた。
「ちゃんと見てました?」
「見ていました」
その返事で、澄川の肩から力が抜けた。
「どうでした?」
「メッセージで答えました」
「直接聞きたいです」
以前にもあったやり取りだった。
真壁はカップをテーブルへ置く。
「すごかったです」
澄川の表情が緩んだ。
「よかった」
それだけで満足したらしい。
しばらくして、真壁は今日の撮影を思い返した。
「カメラの前でも、澄川さんは澄川さんなんですね」
「そう見えました?」
「はい」
澄川が少し笑う。
「また遠いですか」
真壁は少し考えた。
「……少し」
「やっぱり」
「ただ、前とは違います」
「何がです?」
「遠いというより、自分の立つ場所が決まっているように見えました」
澄川はカップの縁を指でなぞった。
「真壁さんも分かってますよね」
「何をですか」
「仕事してる時」
澄川が笑う。
「同じじゃないです?」
言われてみれば、そうだった。
仕事場では必要なことだけをする。役割の中で動き、立つ場所を迷わない。
それを澄川もしているだけだった。
真壁は肩の力を抜いた。
その時、澄川がカップをテーブルへ置き、ソファの上に手を下ろした。伸ばされた指先が真壁の手に触れる。
真壁はそのまま手を返し、指を重ねた。
澄川の目が動く。
「普通にするんですね」
「何を期待していたんですか」
「また考えるかなと思って」
「考えていますよ」
「でも握った」
「はい」
真壁は手を離さなかった。
身体を見るためでも、状態を確かめるためでもない。ただ、触れていたいと思った。
澄川が指を絡める。
真壁もそのまま受け入れた。
「前より早いです」
「何がですか」
「慣れるの」
「まだ慣れてはいません」
「そうですか」
「はい」
澄川は笑い、二人はそのまま手を重ねていた。
数時間前までカメラの前に立っていた人が、今は真壁の隣にいる。
その距離だけが、まだ不思議だった。
澄川が顔を上げる。
「キスしていいです?」
真壁は一度、息を整えた。
「どうぞ」
今度は澄川から近づいた。
短く触れて離れる。
それでも距離は戻らなかった。
真壁はその顔を見たまま、自分から近づく。
二度目は長くなった。
澄川の呼吸が変わる。
真壁の手は頬へ移っていた。
離れたあとも、そのまま触れている。
澄川は何も言わず、真壁の手の中にいた。
やがて、低い声が落ちる。
「続き、しないんですか」
真壁の指が止まった。
意味は分かっている。
頬へ触れていた手を離し、自分の膝へ戻す。
「今日は、ここまでにしたいです」
澄川はそれ以上距離を詰めず、背もたれへ身体を預けた。
「いいですよ」
真壁が顔を上げる。
澄川は距離を戻していた。
「それでいいんですか」
「真壁さんが嫌なら嫌です」
「嫌ではありません」
澄川の目が細くなる。
「じゃあ、まだ早いだけですよね」
真壁は澄川を見る。
「……そうですね」
「なら待てます」
テーブルのカップからは、もうほとんど湯気が消えている。
「澄川さん」
「はい」
「あなたは、こういう時も迷っているように見えませんね」
澄川が笑った。
「迷ってますよ」
「そうは見えません」
「嫌じゃないって分かってるなら、待てます」
真壁はその言葉を聞いた。
急かさない。
押し切らない。
自分が迷っていることまで含めて、そのまま置いてくれる。
やがて澄川が、もう一度手を差し出した。
今度は何も言わなかった。
真壁も迷わず、その手を握った。
その夜は、それ以上先へは進まなかった。
ただ、手を離さないまま二人で座っていた。
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