23 / 27

第23話 仕事のあと

五階の大型スタジオには、朝からいつもより多くの人が出入りしていた。 Ridgelineと澄川律のコラボ映像撮影。海外向けの素材も兼ねているらしく、撮影スタッフだけでなく、音響、照明、制作進行、外部スタッフまで入っている。 真壁修司は警備側として、搬入口からスタジオまでの動線と入退場を確認していた。 撮影が始まれば、警備が前へ出る必要はない。入っていい人間だけが入り、止めてはいけない場所が塞がれなければいい。 スタッフ証を確認しながらスタジオ内へ入ると、照明はすでに落ちていた。 中央には相沢涼。その後ろに凪隼人と紫月颯がいて、横に澄川が立っている。 真壁は出入口脇へ位置を取った。 ライブで見る澄川とも、三階のラウンジで音を合わせていた時とも違って見えた。カメラの前に立つことまで含めて、すでに仕事になっている。 撮影位置が変われば立つ場所を変え、短い指示が飛べば一度で拾う。余計な動きはなく、それでもカメラが回った瞬間、どこへ視線が集まるのかは分かった。 相沢が歌い、凪のギターが入る。そこへ澄川の声が重なった。 真壁には音の細かい設計までは分からない。ただ、モニター前にいたスタッフが同じタイミングで画面へ顔を寄せた。 テイクが止まると、すぐにスタッフが入り、立ち位置と照明が調整される。澄川は必要な指示だけを聞き、自分から余計な確認は挟まない。愛想を振りまくわけでもないのに近寄りがたいわけでもなく、求められている仕事を分かっている人間の立ち方だった。 真壁はそれを見ながら、妙な感覚を覚えた。 数日前、自分の家で付き合うことを決めた人と同じだった。 今は、真壁がいなくても何の問題もなく、自分の場所に立っている。 当然のことだった。 澄川には澄川の仕事があり、真壁には真壁の仕事がある。 「真壁さん」 呼ばれて振り返ると、神谷駿が搬入口側から戻ってきた。 「外部スタッフ、あと二名です。搬入が終わったら入口側、俺が見ます」 「お願いします」 神谷は頷き、すぐに持ち場へ戻っていく。 真壁もスタジオから視線を外した。      * 撮影が終わったのは夕方だった。 警備側の確認を終えた頃、私用のスマートフォンにメッセージが入っていた。 《見てました?》 送信時刻は、撮影終了のあとだった。 真壁は返信する。 《警備です》 すぐに既読がついた。 《でも見てた》 真壁は画面を見てから、 《見ていました》 と返す。 《どうでした?》 また聞いてくる。 澄川は、真壁が自分の仕事をどう見るかをよく聞く。 《すごかったです》 返事が来るまで、今度は間があった。 《それならいいです》 続けて、 《終わりました?》 《もう少しです》 《今日、真壁さんの家行っていいです?》 真壁は画面を見る。 以前なら、何をしに来るのか聞いていたと思う。 今日は聞かなかった。 《どうぞ》 《行きます》      * 澄川が来た頃には、外はもう暗くなっていた。 玄関へ入る動きにも前ほど迷いがない。靴を脱ぐ場所も、上着を置く場所も覚えていて、真壁が飲み物を用意して戻る頃には、澄川はすでにソファへ座っていた。 隣が自然に空いている。 真壁はそこへ座った。 澄川はカップを受け取りながら、こちらを見る。 「今日、見てましたよね」 「警備です」 「それはもう聞きました」 真壁は返さず、自分のカップへ口をつける。 澄川は待ってから、もう一度聞いた。 「ちゃんと見てました?」 「見ていました」 その返事で、澄川の肩から力が抜けた。 「どうでした?」 「メッセージで答えました」 「直接聞きたいです」 以前にもあったやり取りだった。 真壁はカップをテーブルへ置く。 「すごかったです」 澄川の表情が緩んだ。 「よかった」 それだけで満足したらしい。 しばらくして、真壁は今日の撮影を思い返した。 「カメラの前でも、澄川さんは澄川さんなんですね」 「そう見えました?」 「はい」 澄川が少し笑う。 「また遠いですか」 真壁は少し考えた。 「……少し」 「やっぱり」 「ただ、前とは違います」 「何がです?」 「遠いというより、自分の立つ場所が決まっているように見えました」 澄川はカップの縁を指でなぞった。 「真壁さんも分かってますよね」 「何をですか」 「仕事してる時」 澄川が笑う。 「同じじゃないです?」 言われてみれば、そうだった。 仕事場では必要なことだけをする。役割の中で動き、立つ場所を迷わない。 それを澄川もしているだけだった。 真壁は肩の力を抜いた。 その時、澄川がカップをテーブルへ置き、ソファの上に手を下ろした。伸ばされた指先が真壁の手に触れる。 真壁はそのまま手を返し、指を重ねた。 澄川の目が動く。 「普通にするんですね」 「何を期待していたんですか」 「また考えるかなと思って」 「考えていますよ」 「でも握った」 「はい」 真壁は手を離さなかった。 身体を見るためでも、状態を確かめるためでもない。ただ、触れていたいと思った。 澄川が指を絡める。 真壁もそのまま受け入れた。 「前より早いです」 「何がですか」 「慣れるの」 「まだ慣れてはいません」 「そうですか」 「はい」 澄川は笑い、二人はそのまま手を重ねていた。 数時間前までカメラの前に立っていた人が、今は真壁の隣にいる。 その距離だけが、まだ不思議だった。 澄川が顔を上げる。 「キスしていいです?」 真壁は一度、息を整えた。 「どうぞ」 今度は澄川から近づいた。 短く触れて離れる。 それでも距離は戻らなかった。 真壁はその顔を見たまま、自分から近づく。 二度目は長くなった。 澄川の呼吸が変わる。 真壁の手は頬へ移っていた。 離れたあとも、そのまま触れている。 澄川は何も言わず、真壁の手の中にいた。 やがて、低い声が落ちる。 「続き、しないんですか」 真壁の指が止まった。 意味は分かっている。 頬へ触れていた手を離し、自分の膝へ戻す。 「今日は、ここまでにしたいです」 澄川はそれ以上距離を詰めず、背もたれへ身体を預けた。 「いいですよ」 真壁が顔を上げる。 澄川は距離を戻していた。 「それでいいんですか」 「真壁さんが嫌なら嫌です」 「嫌ではありません」 澄川の目が細くなる。 「じゃあ、まだ早いだけですよね」 真壁は澄川を見る。 「……そうですね」 「なら待てます」 テーブルのカップからは、もうほとんど湯気が消えている。 「澄川さん」 「はい」 「あなたは、こういう時も迷っているように見えませんね」 澄川が笑った。 「迷ってますよ」 「そうは見えません」 「嫌じゃないって分かってるなら、待てます」 真壁はその言葉を聞いた。 急かさない。 押し切らない。 自分が迷っていることまで含めて、そのまま置いてくれる。 やがて澄川が、もう一度手を差し出した。 今度は何も言わなかった。 真壁も迷わず、その手を握った。 その夜は、それ以上先へは進まなかった。 ただ、手を離さないまま二人で座っていた。

ともだちにシェアしよう!