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第24話 触れば分かる

澄川律が真壁修司の家へ来たのは、夕方だった。 恋人になってから、二人で会うこと自体はもう珍しくない。 けれど今日は、最初からいつもと少し違っていた。 真壁は帰宅後にシャワーを済ませ、夕食を用意していた。澄川が来てから二人で食べ、片づけまで終えても、どちらからも帰る時間の話は出なかった。 ソファへ戻る途中、澄川が自分の髪へ触れて振り返る。 「シャワー借りてもいいです?」 「どうぞ」 真壁はタオルを用意し、バスルームへ案内した。 「使うものは置いてあります」 「ありがとうございます」 澄川が奥へ消える。 やがて水音が聞こえ始めた。 真壁はリビングへ戻り、テーブルに残っていたカップを片づける。 自分の家の奥で、澄川がシャワーを使っている。 以前なら、それだけでも落ち着かなかったと思う。 今はもう、手をつなぐことにも迷わない。キスもできる。 それでも、その先だけはまだ輪郭がなかった。 身体のことなら分かる。 触れれば、どこへ力が入っているかも、呼吸がどこで浅くなるかも分かる。肩の張りも、姿勢の崩れも、疲労の残り方も読むことができる。 けれど、それは今まで身体を楽にするために使ってきた感覚だった。 恋人へ触れるために使っていいものなのか。 知っていることと、していいことは同じではない。 水音が止まった。 しばらくして、澄川が戻ってくる。 髪はまだ湿っていた。肩へタオルを掛け、来た時とは違う薄手のシャツに着替えている。 濡れた髪が額へ落ち、首筋にはまだ水気が残っていた。シャツの襟元から見える肌も、仕事中よりずっと無防備に見える。 「着替え、持ってきていたんですね」 「はい」 「最初から?」 澄川がこちらを見る。 「一応」 それ以上は言わない。 真壁が視線を外すと、澄川が笑った。 「見ましたよね」 「見ました」 「正直ですね」 「聞かれましたので」 隣へ座る。 近づいた瞬間、自分がいつも使っているはずのボディーソープの匂いがした。 澄川から香ると、妙に違って感じる。 先に手を伸ばしたのは澄川だった。 指先が真壁の手へ触れ、そのまま絡む。 真壁も握り返した。 澄川が顔を上げる。 今度は真壁から近づいた。 キスをする。 前までのように、触れてすぐ離れるだけでは終わらなかった。 澄川も自然に応じる。 重ねていた手が真壁の腕をたどり、肩へ乗る。真壁は頬へ手を添え、湿った髪を指で避けた。 離れた時には、互いの呼吸が変わっていた。 澄川は距離を戻さない。 膝が触れそうなまま、真壁を見る。 「今日は?」 意味は分かった。 それでも、そこから先だけが分からない。 真壁の中には、まだ仕事で覚えた身体の見方が残っている。 肩が上がっていないことも、呼吸が乱れきっていないことも、座り方に無理がないことも、見れば分かる。 「また考えてます?」 「はい」 「どうすればいいのか、まだ分かりません」 澄川の視線が真壁の手へ落ちる。 「身体のことは分かるんですよね」 「それなら分かります」 澄川は少し考え、立ち上がった。 「状態確認してください」 真壁が顔を上げる。 澄川は目を逸らさないまま、シャツの裾へ手をかけた。 裾を持ち上げ、頭を抜く。脱いだシャツをソファへ置いた。 何度も触れた肩も背中も、今は何も隔てるものがない。 真壁の視線が、そこで止まった。 澄川は隠さない。 「これなら分かります?」 分かる。 肩の高さも、背中の張りも、立った時の重心も。 ただ、今目に入っているのはそれだけではなかった。 「澄川さん」 「はい」 「本気ですか」 「本気です」 返事に迷いはない。 澄川が寝室の方を見る。 「ベッド借りていいですか」 「状態確認に?」 「その方がやりやすいでしょう」 言い方は軽い。 けれど澄川はもうソファへ戻らなかった。 寝室へ入ると、ベッドの端へ腰を下ろす。 「どうすればいいです?」 「うつ伏せになってください」 澄川が笑った。 「ほんとに状態確認するんですね」 「頼んだのは澄川さんでしょう」 「そうですけど」 澄川は身体を伏せた。 真壁はベッドの端へ腰を下ろし、まず肩へ手を置く。 掌へ直接、肌の熱が伝わった。 「力を抜いてください」 「はい」 肩から首へ触れ、背中へ手を移す。 左右の張りを見る。 強い張りはない。疲労も大きく残っていない。 指先で肩甲骨の近くへ触れる。 「ここは?」 「大丈夫です」 少し場所を変える。 「ここは?」 澄川が息を吐いた。 「……そこは、ちょっと」 「痛いですか」 「違います」 声が低くなった。 真壁は同じ場所へ掌を戻す。 「では?」 澄川が枕へ顔を向ける。 「気持ちいいです」 真壁の手が、そのままゆっくり動いた。 張りを探すためではない。 澄川の背中がわずかに揺れる。 「ここ、気持ちいいですか?」 聞き方だけなら、いつもの状態確認と変わらなかった。 けれど、意味はもう違う。 澄川も分かったらしい。 顔を横へ向け、真壁を見る。 「真壁さん」 「はい」 「それ、状態確認じゃないですよね?」 「はい。ただの確認です」 澄川の目が揺れた。 真壁はもう一度同じ場所へ触れた。 今度は呼吸がはっきり変わる。 「……ずるい」 真壁の掌が背中を下り、腰のあたりで止まった。 「澄川さん」 「はい」 「ここから先も?」 一瞬だけ息が止まる。 それでも澄川は目を逸らさなかった。 「……いいですよ」 真壁の指が腰へかかる。 急がず、そのまま下ろしていく。 澄川の指がシーツをつかむ。 さっきまで状態を見ていた身体が、もうまるで違う意味で真壁の手の下にある。 その違いは、真壁にもはっきり分かった。 「綺麗ですね」 澄川の動きが止まった。 「……何ですか、それ」 「綺麗だと思いました」 「二回言わなくていいです」 耳まで熱を持っている。 その反応まで目に入り、真壁の中の熱がさらに上がった。 「そういう顔もするんですね」 「真壁さんのせいでしょう」 「そうですね」 澄川は身体を起こした。 逃げるためではない。 真壁の前へ膝をつき、そのままシャツへ手を伸ばす。 「真壁さんも」 「私も?」 「俺だけ脱いでるの、嫌です」 澄川の指がボタンへかかった。 一つずつ外れていく。 真壁は止めなかった。 最後まで開くと、シャツが肩から外れる。 澄川の掌が、露わになった胸元へ触れた。 その瞬間、真壁の呼吸が深くなる。 澄川も気づいたらしい。 掌を胸板へ置いたまま、顔を上げた。 「確認、お願いします」 真壁の中で、何かが切り替わった。 「……澄川さん」 「はい」 「それは、かなり困ります」 「何がです?」 真壁は澄川の手を胸元へ残したまま、腰へ腕を回して引き寄せた。 身体が触れ、澄川の息が浅くなる。 「今の言い方です」 「確認してって言っただけですよ」 「分かっています」 「じゃあ」 「だから困っています」 真壁がさらに距離を詰める。 澄川の肩に置いた手へ力が入った。 「真壁さん」 「はい」 「ちょっと待って」 真壁はそこで止まった。 澄川が息を整える。 「嫌ではないです」 先に言われ、真壁はその顔を見る。 「急に本気になるから」 「本気ですよ」 「それ、今言います?」 「今は、止まる理由がありません」 澄川が顔を伏せる。 首まで赤い。 真壁は頬へ手を添え、その顔を上げさせた。 「綺麗ですね」 「また言った」 「思ったので」 「それ、ほんとに困ります」 言いながらも、澄川は離れない。 真壁の肩へ手を置き、自分から距離を詰める。 「でも、嫌じゃないです」 その返事を受けて、真壁はキスをした。 澄川の腕が背中へ回る。 今度は距離を戻さなかった。 真壁は身体を支えながら、澄川をベッドへ預ける。 澄川が目を閉じた。 真壁の手が触れたところで、澄川の身体がわずかに揺れた。 「ここ、気持ちいいですか?」 澄川の目が開く。 「……分かってるでしょう」 「聞きたいんです」 澄川は真壁の肩をつかんだ。 視線が逸れる。 「……気持ちいいです」 真壁はもう待たなかった。 触れ方を変えると、澄川の腰がわずかに浮いた。 すぐに戻ろうとした身体を、真壁の手が支える。 「澄川さん」 「……はい」 返事をした声まで揺れている。 真壁がもう一度同じように触れると、今度は肩をつかんでいた指に力が入った。 「ここですか」 澄川が目を閉じる。 「……聞かないで」 「気持ちいいですか?」 「真壁さん」 「はい」 困ったように名前を呼ばれても、真壁は手を止めなかった。 「……気持ちいいです」 今度はさっきより声が近かった。 真壁の中の熱が、さらに上がる。 どこで息を飲むのか。 どこへ触れると力が抜けるのか。 どんな時に名前を呼ぶのか。 一つ知るたび、次を知りたくなる。 いつも先へ進んでいたのは澄川だった。 会いたいと言うのも、触れてほしいと言うのも、キスを求めるのも。 今夜も、最初にシャツを脱いでベッドへ来たのは澄川だった。 けれど今は、真壁が触れるたびに澄川の方が言葉を失っていく。 「真壁さん」 「はい」 「こういうの、初めてなんですよね」 「はい」 「それでこれ?」 「何か問題がありますか」 「俺が困ってます」 真壁は笑った。 「笑わないでください」 「すみません」 「絶対思ってないでしょう」 真壁は頬へ触れる。 親指で熱の残る肌を撫でると、それだけで澄川の目が揺れた。 「……ずるいです」 真壁は頬から手を離さなかった。 澄川の手が真壁の背中へ回り、近くで息を吐く。 「……止めないで」 今度は敬語まで落ちた。 真壁はその声を覚えておきたいと思った。 「分かりました」 そのあとは、言葉より先に身体が反応した。 触れる場所が変わるたびに呼吸が揺れ、力の入る場所も変わる。 澄川はもう余裕のある顔を作ろうとはしなかった。 真壁の名前を呼び、肩をつかみ、近づけば近づくほど身体を預ける。 真壁はその変化を一つずつ拾った。 夜が深くなる頃には、最初に何を確認していたのかも分からなくなっていた。 ただ、触れるたびに澄川のことを知った。 知るほど、もっと触れたくなった。 やがて澄川が、真壁の肩へ額を預ける。 「真壁さん」 「はい」 「これ、覚えたらもっとやばくなります?」 真壁はすぐ近くにある顔を見る。 髪はもう乾き始め、頬にはまだ熱が残っている。 「何を覚えるんですか」 「俺への触り方」 真壁は澄川の手へ自分の手を重ねた。 「今、覚えているところです」 澄川が目を閉じる。 「……それが一番怖い」 それでも手は離れなかった。 真壁も離さない。 澄川はそのまま真壁の胸元へ額を預けた。 乱れていた呼吸が、少しずつ近いところで整っていく。 真壁は背中へ腕を回し、その重さを受け止めた。 もう、何かを確かめるためではなかった。

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