24 / 27
第24話 触れば分かる
澄川律が真壁修司の家へ来たのは、夕方だった。
恋人になってから、二人で会うこと自体はもう珍しくない。
けれど今日は、最初からいつもと少し違っていた。
真壁は帰宅後にシャワーを済ませ、夕食を用意していた。澄川が来てから二人で食べ、片づけまで終えても、どちらからも帰る時間の話は出なかった。
ソファへ戻る途中、澄川が自分の髪へ触れて振り返る。
「シャワー借りてもいいです?」
「どうぞ」
真壁はタオルを用意し、バスルームへ案内した。
「使うものは置いてあります」
「ありがとうございます」
澄川が奥へ消える。
やがて水音が聞こえ始めた。
真壁はリビングへ戻り、テーブルに残っていたカップを片づける。
自分の家の奥で、澄川がシャワーを使っている。
以前なら、それだけでも落ち着かなかったと思う。
今はもう、手をつなぐことにも迷わない。キスもできる。
それでも、その先だけはまだ輪郭がなかった。
身体のことなら分かる。
触れれば、どこへ力が入っているかも、呼吸がどこで浅くなるかも分かる。肩の張りも、姿勢の崩れも、疲労の残り方も読むことができる。
けれど、それは今まで身体を楽にするために使ってきた感覚だった。
恋人へ触れるために使っていいものなのか。
知っていることと、していいことは同じではない。
水音が止まった。
しばらくして、澄川が戻ってくる。
髪はまだ湿っていた。肩へタオルを掛け、来た時とは違う薄手のシャツに着替えている。
濡れた髪が額へ落ち、首筋にはまだ水気が残っていた。シャツの襟元から見える肌も、仕事中よりずっと無防備に見える。
「着替え、持ってきていたんですね」
「はい」
「最初から?」
澄川がこちらを見る。
「一応」
それ以上は言わない。
真壁が視線を外すと、澄川が笑った。
「見ましたよね」
「見ました」
「正直ですね」
「聞かれましたので」
隣へ座る。
近づいた瞬間、自分がいつも使っているはずのボディーソープの匂いがした。
澄川から香ると、妙に違って感じる。
先に手を伸ばしたのは澄川だった。
指先が真壁の手へ触れ、そのまま絡む。
真壁も握り返した。
澄川が顔を上げる。
今度は真壁から近づいた。
キスをする。
前までのように、触れてすぐ離れるだけでは終わらなかった。
澄川も自然に応じる。
重ねていた手が真壁の腕をたどり、肩へ乗る。真壁は頬へ手を添え、湿った髪を指で避けた。
離れた時には、互いの呼吸が変わっていた。
澄川は距離を戻さない。
膝が触れそうなまま、真壁を見る。
「今日は?」
意味は分かった。
それでも、そこから先だけが分からない。
真壁の中には、まだ仕事で覚えた身体の見方が残っている。
肩が上がっていないことも、呼吸が乱れきっていないことも、座り方に無理がないことも、見れば分かる。
「また考えてます?」
「はい」
「どうすればいいのか、まだ分かりません」
澄川の視線が真壁の手へ落ちる。
「身体のことは分かるんですよね」
「それなら分かります」
澄川は少し考え、立ち上がった。
「状態確認してください」
真壁が顔を上げる。
澄川は目を逸らさないまま、シャツの裾へ手をかけた。
裾を持ち上げ、頭を抜く。脱いだシャツをソファへ置いた。
何度も触れた肩も背中も、今は何も隔てるものがない。
真壁の視線が、そこで止まった。
澄川は隠さない。
「これなら分かります?」
分かる。
肩の高さも、背中の張りも、立った時の重心も。
ただ、今目に入っているのはそれだけではなかった。
「澄川さん」
「はい」
「本気ですか」
「本気です」
返事に迷いはない。
澄川が寝室の方を見る。
「ベッド借りていいですか」
「状態確認に?」
「その方がやりやすいでしょう」
言い方は軽い。
けれど澄川はもうソファへ戻らなかった。
寝室へ入ると、ベッドの端へ腰を下ろす。
「どうすればいいです?」
「うつ伏せになってください」
澄川が笑った。
「ほんとに状態確認するんですね」
「頼んだのは澄川さんでしょう」
「そうですけど」
澄川は身体を伏せた。
真壁はベッドの端へ腰を下ろし、まず肩へ手を置く。
掌へ直接、肌の熱が伝わった。
「力を抜いてください」
「はい」
肩から首へ触れ、背中へ手を移す。
左右の張りを見る。
強い張りはない。疲労も大きく残っていない。
指先で肩甲骨の近くへ触れる。
「ここは?」
「大丈夫です」
少し場所を変える。
「ここは?」
澄川が息を吐いた。
「……そこは、ちょっと」
「痛いですか」
「違います」
声が低くなった。
真壁は同じ場所へ掌を戻す。
「では?」
澄川が枕へ顔を向ける。
「気持ちいいです」
真壁の手が、そのままゆっくり動いた。
張りを探すためではない。
澄川の背中がわずかに揺れる。
「ここ、気持ちいいですか?」
聞き方だけなら、いつもの状態確認と変わらなかった。
けれど、意味はもう違う。
澄川も分かったらしい。
顔を横へ向け、真壁を見る。
「真壁さん」
「はい」
「それ、状態確認じゃないですよね?」
「はい。ただの確認です」
澄川の目が揺れた。
真壁はもう一度同じ場所へ触れた。
今度は呼吸がはっきり変わる。
「……ずるい」
真壁の掌が背中を下り、腰のあたりで止まった。
「澄川さん」
「はい」
「ここから先も?」
一瞬だけ息が止まる。
それでも澄川は目を逸らさなかった。
「……いいですよ」
真壁の指が腰へかかる。
急がず、そのまま下ろしていく。
澄川の指がシーツをつかむ。
さっきまで状態を見ていた身体が、もうまるで違う意味で真壁の手の下にある。
その違いは、真壁にもはっきり分かった。
「綺麗ですね」
澄川の動きが止まった。
「……何ですか、それ」
「綺麗だと思いました」
「二回言わなくていいです」
耳まで熱を持っている。
その反応まで目に入り、真壁の中の熱がさらに上がった。
「そういう顔もするんですね」
「真壁さんのせいでしょう」
「そうですね」
澄川は身体を起こした。
逃げるためではない。
真壁の前へ膝をつき、そのままシャツへ手を伸ばす。
「真壁さんも」
「私も?」
「俺だけ脱いでるの、嫌です」
澄川の指がボタンへかかった。
一つずつ外れていく。
真壁は止めなかった。
最後まで開くと、シャツが肩から外れる。
澄川の掌が、露わになった胸元へ触れた。
その瞬間、真壁の呼吸が深くなる。
澄川も気づいたらしい。
掌を胸板へ置いたまま、顔を上げた。
「確認、お願いします」
真壁の中で、何かが切り替わった。
「……澄川さん」
「はい」
「それは、かなり困ります」
「何がです?」
真壁は澄川の手を胸元へ残したまま、腰へ腕を回して引き寄せた。
身体が触れ、澄川の息が浅くなる。
「今の言い方です」
「確認してって言っただけですよ」
「分かっています」
「じゃあ」
「だから困っています」
真壁がさらに距離を詰める。
澄川の肩に置いた手へ力が入った。
「真壁さん」
「はい」
「ちょっと待って」
真壁はそこで止まった。
澄川が息を整える。
「嫌ではないです」
先に言われ、真壁はその顔を見る。
「急に本気になるから」
「本気ですよ」
「それ、今言います?」
「今は、止まる理由がありません」
澄川が顔を伏せる。
首まで赤い。
真壁は頬へ手を添え、その顔を上げさせた。
「綺麗ですね」
「また言った」
「思ったので」
「それ、ほんとに困ります」
言いながらも、澄川は離れない。
真壁の肩へ手を置き、自分から距離を詰める。
「でも、嫌じゃないです」
その返事を受けて、真壁はキスをした。
澄川の腕が背中へ回る。
今度は距離を戻さなかった。
真壁は身体を支えながら、澄川をベッドへ預ける。
澄川が目を閉じた。
真壁の手が触れたところで、澄川の身体がわずかに揺れた。
「ここ、気持ちいいですか?」
澄川の目が開く。
「……分かってるでしょう」
「聞きたいんです」
澄川は真壁の肩をつかんだ。
視線が逸れる。
「……気持ちいいです」
真壁はもう待たなかった。
触れ方を変えると、澄川の腰がわずかに浮いた。
すぐに戻ろうとした身体を、真壁の手が支える。
「澄川さん」
「……はい」
返事をした声まで揺れている。
真壁がもう一度同じように触れると、今度は肩をつかんでいた指に力が入った。
「ここですか」
澄川が目を閉じる。
「……聞かないで」
「気持ちいいですか?」
「真壁さん」
「はい」
困ったように名前を呼ばれても、真壁は手を止めなかった。
「……気持ちいいです」
今度はさっきより声が近かった。
真壁の中の熱が、さらに上がる。
どこで息を飲むのか。
どこへ触れると力が抜けるのか。
どんな時に名前を呼ぶのか。
一つ知るたび、次を知りたくなる。
いつも先へ進んでいたのは澄川だった。
会いたいと言うのも、触れてほしいと言うのも、キスを求めるのも。
今夜も、最初にシャツを脱いでベッドへ来たのは澄川だった。
けれど今は、真壁が触れるたびに澄川の方が言葉を失っていく。
「真壁さん」
「はい」
「こういうの、初めてなんですよね」
「はい」
「それでこれ?」
「何か問題がありますか」
「俺が困ってます」
真壁は笑った。
「笑わないでください」
「すみません」
「絶対思ってないでしょう」
真壁は頬へ触れる。
親指で熱の残る肌を撫でると、それだけで澄川の目が揺れた。
「……ずるいです」
真壁は頬から手を離さなかった。
澄川の手が真壁の背中へ回り、近くで息を吐く。
「……止めないで」
今度は敬語まで落ちた。
真壁はその声を覚えておきたいと思った。
「分かりました」
そのあとは、言葉より先に身体が反応した。
触れる場所が変わるたびに呼吸が揺れ、力の入る場所も変わる。
澄川はもう余裕のある顔を作ろうとはしなかった。
真壁の名前を呼び、肩をつかみ、近づけば近づくほど身体を預ける。
真壁はその変化を一つずつ拾った。
夜が深くなる頃には、最初に何を確認していたのかも分からなくなっていた。
ただ、触れるたびに澄川のことを知った。
知るほど、もっと触れたくなった。
やがて澄川が、真壁の肩へ額を預ける。
「真壁さん」
「はい」
「これ、覚えたらもっとやばくなります?」
真壁はすぐ近くにある顔を見る。
髪はもう乾き始め、頬にはまだ熱が残っている。
「何を覚えるんですか」
「俺への触り方」
真壁は澄川の手へ自分の手を重ねた。
「今、覚えているところです」
澄川が目を閉じる。
「……それが一番怖い」
それでも手は離れなかった。
真壁も離さない。
澄川はそのまま真壁の胸元へ額を預けた。
乱れていた呼吸が、少しずつ近いところで整っていく。
真壁は背中へ腕を回し、その重さを受け止めた。
もう、何かを確かめるためではなかった。
ともだちにシェアしよう!

