53 / 60
第53話 音のない時間
演奏が終わってから、会場の空気はゆっくり変わっていった。
特設ステージの照明は落とされ、残った明かりも足元や通路を照らすものだけになっている。人の声も自然と小さくなり、さっきまで音楽があった場所には、草が風に揺れる音が戻っていた。
真壁は河川側へ移動しながら、人の流れを見る。
蛍が見え始めたことで、来場者の歩く速度は明らかに変わっていた。立ち止まる人が増え、光を追った子どもが道から外れそうになる。暗さに目が慣れるより先に視線が上へ向くため、足元への注意も薄くなりやすい。
「そちら、少しだけ道を空けてください」
大きな声を出す必要はなかった。
近くにいた家族が少し横へ移ると、塞がりかけていた通路にまた人が通れる幅ができる。
演奏中より静かになった無線へ、神谷の声が短く入った。
『東側、問題なし』
「こちらも問題ありません」
真壁も周囲を見たまま返した。
人数を前へ出して誘導するのではなく、必要になった場所だけ動く。事前に決めた通りの運用だった。
草の上では小さな光が少しずつ増え始め、一つが浮かぶと、少し離れた場所でもう一つが応えるように光った。来場者の間から抑えた声が上がるが、会場全体の静けさを崩すほどではない。
真壁が次の位置へ移ろうとした時、古民家脇の関係者用に確保された一角が視界に入った。
そこに澄川がいた。
一般客の流れからは外れた場所で、凪と相沢も一緒に草地の方を見ている。
澄川はもうステージに立っていた時のままではなく、上着を羽織っていた。凪が何か短く言うと澄川が返し、少し離れたところで相沢も二人の会話を聞きながら蛍の方を見ている。
真壁は足を緩めず、その前を通り過ぎた。
出演者が一般客の中へ混ざる必要はないし、真壁が隣にいなくても、三人は蛍を見ていられる。
それでいい。
しばらくすると人の密度も落ち着き、ステージを目当てに来ていた客の一部が帰り始めた。残った人たちは蛍を見る場所へ広がり、それぞれが少しずつ距離を取って立っている。
真壁はいったん道路側まで戻った。
神谷が別の警備員と配置を確認しており、真壁が近づくと会場図から顔を上げた。
「こっち、もう一人下げても大丈夫そうです」
「そうですね」
「真壁さん、河川側どうです?」
「落ち着いています。子どもが多いので、通路だけ見ておきます」
神谷が頷く。
「じゃあ俺、駐車場側見てきます」
「お願いします」
神谷が離れるのを見送ってから、真壁はまた河川側へ戻った。
暗さに目が慣れてくると、最初は何も見えなかった草の奥にも光があることが分かる。真壁は来場者の足元と通路を確認しながら歩き、ときどき視界へ入る小さな明かりもそのまま受け取った。
少し先の関係者側に、今度は澄川だけが立っていた。
凪と相沢は別の場所へ移ったらしい。
澄川はスマートフォンも出さず、何も持たないまま草地の奥を見ている。蛍が浮かぶたびに顔の向きだけがわずかに変わり、その光を追っていた。
真壁は歩く速度を変えなかった。
関係者用の区画の外側を通った時、澄川がこちらを見る。
視線が重なった。
澄川は声をかけず、真壁も何も言わなかった。
それだけで通り過ぎる。
仕事はまだ終わっていない。
来場者が減っても、帰る人が動けば別の流れが生まれる。駐車場へ向かう人もいれば、古民家カフェ側へ戻る人もいて、最後まで蛍を見ようとその場へ残る人もいる。
真壁はその変化に合わせて必要な場所へ移動し続けた。
それでも、ときどき草の上の光が視界へ入る。
意識して探さなくても見えた。
さっき澄川が見ていたものと、同じ光だった。
終盤に近づく頃、無線から神谷の声が入った。
『真壁さん、河川側どうです』
「落ち着いています」
『こっちもです。あと少ししたら配置落とせます』
「分かりました」
真壁は返してから周囲を見た。
関係者側に、もう澄川の姿はなかった。先に戻ったのか、それとも別の場所へ移ったのかは分からない。
確認はしなかった。
仕事中に探す理由はない。
少しして、草の低いところを蛍が一つ横切った。
今度は真壁も足を止めた。
ほんの数秒だけ、光が草の間を移っていく。
やがて見えなくなると、真壁はまた歩き出した。
一人でも見ることはできる。
それでも、勤務が終わったあとにもう一度見られるなら、今度は澄川と見たいと思った。
ともだちにシェアしよう!

