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2 手のひらの上

 俺の危惧をよそに、塩原との恋人関係は驚くほど順調に続いた。  だがそれも、塩原に適当な理由をつけて周囲には秘密にしておこうと伝え、塩原が守ってくれたおかげもあったのだろう。  理由は分からないが、真介にだけはばれてはいけないと思った。  そんな折、夏休みの最中に塩原から一本の電話がかかってきた。 「ねえ、凌平君。今すぐ来て」  塩原は電話越しに何やら切羽詰まったような声で俺を急かす。 「どうした?」 「誰かに、つけられてるの」 「つけられてる?分かった、すぐ行く。場所は?」  塩原が震える声で伝えてこようとするけれど、周囲のざわめきが大きくて上手く聞き取れない。 「ごめん、もう一回言って」 「だ、だからーー」  塩原が再度居場所を口にしかけた、その時だった。  電話がふつりと切れた。 「おい!塩原?塩原!」  自室に自分の声だけが反響する。 「くそっ、どうしたら」  俺は手当たり次第に塩原とよく行く場所を当たることにしたが、闇雲に捜したところで見つかるはずもなく。  気がつけば、繁華街に来た時にはすっかり日が暮れ、辺りは闇に飲まれ始めていた。 「もう一回かけてみるか」  幾度もかけた塩原の番号をタップしようとしたところで、当の本人から電話がかかってきた。 「っ……塩原?大丈夫か?」  開口一番にそう尋ねると、塩原が暗い声で答えた。 「平気。心配しないで」 「心配しないでって、何かあったんだろ?」 「ううん、気のせいだったみたい。知り合いだったから大丈夫。ごめんね」 「なんだ、こっちは焦ったんだぞ」 「うん、ごめん。じゃあ、私はこの後用事があるから」  それだけ素っ気なく伝えられると、あっさり通話が切れた。  違和感を抱いたが、塩原に怯えている様子はなさそうだったため、気にしないことにした。 「よし、じゃあ帰るか」  一人頷き、踵を返そうとした時、通りの向こうから男女が歩いてくるのが見えた。  遠目にも、すぐに男の方は真介だと分かる。 「なんだ、あいつ女がいたのか」  俺はほっとしたような、どこか残念なような気持ちで二人を見送る。  残念……?  自分の気持ちに首を傾げて、二人とは反対方向に歩き始める。  すれ違った瞬間に首筋がぞわりとしたが、気のせいだと思うことにした。  塩原と付き合い始めて以来、俺はボロが出ないように、真介と距離を置くようにしている。  真介も真介で、自分から関わってくるようなタイプの人間ではないため、自然と関わることがなくなった。  ただ、時折強い視線は相変わらず感じている。  真介がその視線の主だと分かっていても、分からないふりをした。 「だって、あいつは平気で俺のこと」  途中まで出かかった台詞を飲み込み、俺はゆっくりと帰路に着く。  だが、努めて忘れようとしていたところへ、次の異変が起こったのはそれからすぐのことだった。 「え?なんで?」 『ごめん、赤池君。距離置きたい』  塩原からそのメッセージが届いたのは、2日後のことだった。  それまではわりと頻繁にメッセージも電話もしていたが、2日前のあの出来事以来、頻度が落ちていたのは確かだ。  けれど、その原因にはまるで思い当たらない。  やっぱり何かあったのか?  でも、それならなぜ、俺の呼び名まで変えたり、距離を置く必要がある?  底知れない不安が襲ってきて、どう返事をしようかと迷っていると、学校から電話がかかってきた。 「……はい」 「赤池さん、今日は補講の日ですよ。忘れてませんか」 「あ……すみません」 「今からでもいいので、来てください」 「分かりました……」  応えた途端に通話が途絶え、蝉の鳴き声が煩いくらいに部屋中に響き渡った。  汗を拭いながら教室に着いた俺は、隅の席に座る真介の姿を認めて、言いようもない感覚に襲われる。  恐怖と、不安と、僅かなそれに類しない感情。  でも、影鷹に襲われた時に助けられたのも事実なんだよな……。  俺は席に着きながら、真介を盗み見る。  真介はレンズの汚れが気になるのか、眼鏡を外した。  その瞬間、俺は否応なしに真介の顔に釘付けになってしまった。  あれ……。  なんか……。  眼鏡を外すと、思いの外整った風貌が現れたからだ。  眼鏡の縁が太いせいか、いつもどこか野暮ったい印象があって気がつかなかった。  思わずじっと見つめてしまえば、真介がこちらを向く。  あ、やべ。  咄嗟に視線を逸らしたが、勘づかれたのだろう。  補講が終わるまで、時折真介から見られているのが分かった。  終わったら、何か言われるよな。  俺は終了の挨拶とともに脱兎のごとく逃げ出そうとしたが、手元が狂ってペンケースの中身をぶちまけてしまい、消ゴムが遠くに転がってしまう。  バカ、何やってんだ、俺。  自分に苛立ちを覚えながら拾いに行こうとすると、目の前で誰かが消ゴムを拾い上げた。 「あ、ありが……」  顔を上げた俺は言葉を飲み込む。  真介の視線とこんなに近くで合わさったのは、あの時以来だった。   真介の目は、憎しみとは別に違う仄暗い感情が滲んでいた。  それでいて熱っぽく、見ていたら惹き込まれそうになって、俺は無理やり逸らした。  なんだ?真介、前はこんな目をしなかったぞ。  嫌な具合に心がざわざわする。  違う。俺はそんなんじゃ。  自分の中に生じた理由の分からない焦燥と、熱をどうにか逃がそうと喘いだ時、真介の手が伸びてきて。  俺は咄嗟に目を瞑る。  すると、頬に何か固いものが押し当てられた。 「いらないのか」  真介の言葉に目を開くと、消しゴムを押し付けられているのが分かった。 「い、いる」  俺は急いで受け取ると、立ち上がる。  早くこの場から、真介の前から立ち去らないと、真介の目に当てられそうだった。 「赤池」  立ち去ろうとした時、真介が呼び止めてくる。  俺は無視して行こうとしたが、続けられた台詞に足を止めた。 「お前、まだあの時の台詞を気にしているのか」 「……まさか」 「じゃあ、一緒に帰れるよな」 「……」  無言を肯定と取られた。  真介は俺の右手を掴むと、そのまま引っ張って歩き始める。 「ちょっ、何するんだよ。一緒に帰るとか俺は一言も」 「でも、拒否はしなかっただろ。それに、話したいこともある。ここじゃ話せないから行くぞ」  声音に真剣な色を感じて、俺は断ることもできなくなり、そのまま引きずられるようにして歩き始めた。 「あのさ、そろそろいいんじゃないか?」  学校の門から出て、街中を少し歩いたところで、俺は話を促した。  まさか、俺のことを。  殺したい、とか……それとも?  どちらにしろ困ったことになるな、と一人で勝手に想像して狼狽えていると、真介は振り向いて俺を見た。 「お前、塩原と付き合ってるんだろ?」 「え……なんで知って……」 「分かりやすいからな」 「でも、徹底的に学校では接したりしないようにしてたのに」 「それがかえってわざとらしかった」 「う……」  そう言われると反論できなくなる。  もともと、塩原は俺によく話しかけてきていたし、急にお互い接しなくなれば、失恋したのか、それともと勘繰る人もいるだろう。  一番ばれたくない人に早々に気づかれていたことに、俺は居心地が悪い思いを味わう。 「でも、そこはどうでもいい。問題は、塩原が一昨日、不審者に付け回されていたことだ」 「え……?み、見たのか?」  俺は一瞬、別の言葉が出かかった。  けれど、真介の真剣な目つきを見た瞬間に溶けて消えていった。 「見た」 「どんな人物だったんだ?」 「たぶん……、男、だな。背格好からして。でも、顔を隠していたからはっきりとはしなかった」 「そう、か……」 「塩原からは何か聞いてないのか?」 「いや、むしろ……何か俺、避けられてるみたいで」 「避けられてる?」  真介の目がギラリと光ったような気がしたが、単に陽光が眩しいせいだろう。  俺は情報をくれた真介を疑う気持ちを緩やかに失くしていった。 「ああ。距離を置こうって言われた」 「それは……その相手に脅されたとかじゃないのか?」 「あ……」  その考えには至らなかった。  俺は塩原が気のせいだったと言った時、あっさり信じてしまった。  自分の察しの悪さを悔やむ。 「今からでも、間に合うんじゃないか?塩原の傍にいてやったらどうだ」 「でも……それであいつに何か危害が加えられたら」 「守ってやる自信がないんだな」  真介がバカにしたように笑う。  俺はカッとした。 「お前、他人事だと思って……っ」 「悪い。ならその代わりに、俺が犯人を見つけ出してやる」 「ホントか?」 「ああ、任せろ」  俺はしっかり頷く真介を見て、頼もしく感じ始めた。 「塩原、この間つけられてたってのは、本当だったんだろ?」  電話をかけて第一声でその台詞を吐くと、塩原が息を飲むのが分かった。 「なんで……」 「勘だ。今からそっちに行く」 「駄目だよ」 「行くからな」  塩原が拒もうとするのを無視して、俺は電話を一方的に切り、真介に頷いた。 「行こう」 「ああ」  俺は真介と共に、塩原の自宅に向かった。 「でも、見つけ出すってどうやって?」 「簡単だ。奴は今でも塩原の近くで見張っているに違いないから、お前が近づけばすぐに出てくるはずだ」 「危険じゃないのか?」 「それも承知の上だろ?」  真介は愉しげに笑う。  俺はそれに勇気づけられ、頷いた。 「そうだな。ビビってられないな」  自分の両頬を叩き、気を引き締めたところで、塩原の自宅付近に辿り着いた。  すると、電柱の影にどこか見覚えのある男が立っているのが分かった。 「あれは」  誰だったか?  俺が記憶を手繰り寄せようとした時、真介が走り出す。 「え、おい!」  俺も後に続いて走るが、真介には追いつけず、目の前で真介がその男に蹴りを入れるのを見守るしかなかった。 「っ……!に、しやが……!?」  その男は髪色を派手に染めていて、いかにも柄が悪そうな風貌をしていたが、真介を目にした途端にざっと顔を蒼くする。 「?」  一瞬疑問が生じたが、真介が男を取り押さえるのを見て、その見事な手捌きに吹き飛んだ。 「こっちは平気だから、塩原のとこに行ってやれ」  顎で示されて、俺は一つ頷くと、塩原の自宅のインターホンを押そうとし、本人が既に外に出ていることに気がついて動きを止める。 「あ、塩原」 「……」 「塩原、もう大丈夫だから」  俺が安心させるように笑うと、塩原は予想を裏切る態度に出た。 「帰って」 「え……?」 「帰って!もう、私に関わらないで」  睨み付けるようにそう言うと、塩原は自宅に戻っていき、ドアを思い切り閉めた。  俺は呆然とした後に、慌てて外から呼びかける。 「塩原?塩原!どうしたんだよ!何でなのか言ってくれ!」  だが、いくら呼びかけても、塩原が出てくることはなかった。 「何か、悪いな。せっかく手伝ってくれたのに」  それから小一時間後、俺は真介と共に喫茶店にいた。  真介が捕まえた男は、半泣きになりながら謝り、すぐにどこかにいなくなった。  真介曰く、あの男は恐らく塩原のファンだったのだろうということだ。 「いや。俺の方こそ悪かったな。こういう結果になってしまって」  俺はそれに対して首を振り、頼んだカフェオレを口に含む。  半ば呆けたような心地でカフェオレを味わうと、目の前の真介をぼんやり眺めた。  今日一日で劇的に変化したことは二つ。  なぜか塩原にしっかり縁を切られてしまったことと、真介が意外と頼もしいと知ったこと。 「まあ、そう気を落とすな。お前は俺と違ってモテるんだから」  俺がぼんやりしているのをそれだけだと取られたらしいとほっとしていたが、真介は探るような目で俺を見た。 「何?」 「いや。あの時のこと、やっぱり気になってるんだろ?」 「まあ、そりゃ。殺したいほど憎いなんて言われたらな」 「……」  束の間、真介が無表情で黙る。  俺が内心ヒヤリとしていると、すぐに真介は噴き出した。  少しもわざとらしくない、自然な笑いだった。  だから俺も、するりと文句を言うことができた。 「笑うなよ」 「悪い。確かにな。だけど、その台詞は別の意味にも取れないか?」 「別の意味?」  首を傾げると、真介は観察するようにじっと見てきた。  少し考えたが、思い浮かばない。 「分からない。ヒントくれ」 「言葉通りの意味には取らなくていい」  と言われたものの、分からないものは分からない。  俺は真介と不思議なくらいに心地いい時間を過ごした。

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