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超えてしまう一線

 十一時を回る頃には寝始める者も増えていった。この部屋の主である恵介先輩も、ソファにもたれ掛かって目を閉じている。毎回こんな感じでお開きになる。普段なら俺も泊まらせてもらうが、そういう気分ではなかった。甘ったるいチューハイの後で何本かビールを空けたが、酔った気がしない。  ビニール袋にゴミを投げ入れながら、恵介先輩の肩を揺する。 「先輩、恵介先輩。俺、今日は帰りますからね」 「あぁ……うん」  もう寝たいのだろう、返事も適当だ。隣に座っていた夏樹さんが立ち上がる。 「俺も帰る」  床に落ちていた缶をビニール袋に突っ込み、台所に置いてから彼はスタスタと歩き始めた。玄関の前でくるりと振り返る。 「送っていけよ」  俺に言っているのか……いや、俺しかいないだろう。はい、と小さく返事をして後を追い部屋を出た。  夜風は意外と冷たかったが、今の俺には丁度いい。すぐ隣にいる先輩の恋人に、俺は気持ちがどうも落ち着かなかった。  会話はない。ただ頼りない外灯の下を歩く二人の足音ばかりが夜道に響いていた。  徒歩十分もしない場所にアパートがあった。ここ数年以内に造られたであろう学生アパートだ。灰色の無機質な外観は、他のアパートより冷たく感じた。  二階に続く階段に彼は足をかける。その瞬間、俺の袖を摘んだ。思わず顔を見る。  蠱惑的な笑みを、夏樹さんは浮かべていた。  袖を引かれるまま、言葉もなく階段を上る。一番奥の部屋のドアを開けた。  生活感のない部屋には画材やキャンバス、スケッチブックが積み重ねられている。他はベッドとテーブル、小さな本棚くらいしかない。部屋の隅にある間接照明を点ける。ぼんやりとしたオレンジ色の灯りが部屋を照らした。 「こっち」  袖ではなく手を引かれ、ベッドに座らされた。白い手が頬を撫でる。指先が唇をなぞった。  ゆっくりと彼は俺に跨る。目が、合った。この時だけは何を考えているのかよく分かった。  欲情した目で俺を見つめていた。そして彼の目から見た俺も、そうなのだろう。  首に腕が絡まる。顔が近づき、唇を塞がれた。反射的に背中に腕を回す。咥内に侵入する舌を絡ませ、角度を変えて何度も貪った。まだ先輩の部屋の匂いが彼の髪に残っている気がした。濡れた音と息遣いが部屋に充満する。  無意識のうちに俺の手は夏樹さんのシャツのボタンを外していた。彼もまた、俺のTシャツを脱がしていく。肌が触れ合い、熱を帯びていく。  細い体を撫で回しベッドに押し倒した。荒い呼吸を繰り返し、見つめ合う。欲を含んだ色が瞳の奥に見える。だがそのさらに奥に……空虚なものが覗く。“何ものにも期待していない”……そんな虚ろがあった。  指先が俺の腹筋をなぞる。夏樹さんは笑いーー囁いた。 「抱いてみる……?」  頭が揺れる。それは酔っているからか、それともこの熱に浮かされているからか。分からなかった。どちらでも良かった。掠れた囁きを聞いた瞬間、もうその気になっていた。

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