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第5話 変わったのはどっちだ

夜のアトラボ三階には、収録を終えたあとの空気がまだ薄く残っていた。 片づけ途中の機材ケースとケーブルが壁際へ寄せられ、テーブルには誰かが置き忘れたペットボトルが一本残っている。窓の外では、東京の灯りがガラス越しに少し滲んでいた。 紫月颯はソファへ深く座り、膝の上でノートPCを開いていた。 画面には、今日収録したRidgelineの映像素材が止まっている。 再生する気になれないまま、紫月の頭には別の光景が残っていた。 後方の関係者席で腕を組み、周囲へほとんど視線を動かさず、凪の演奏だけを聴いていた月城玲士。 紫月は小さく舌打ちした。 「……しつこいんだよ」 近くで水を飲んでいた凪隼人が振り向く。 「誰が」 「お前の古参ファン」 「ああ、おじさん」 迷いのない返事に、紫月は額へ手を当てた。 「その呼び方、本人よく許してんな」 「心広いんじゃね」 「広いっていうか、昔はもっと尖ってた」 凪はソファの背へ身体を預けた。 「昔?」 紫月はテーブルの缶コーヒーを取り、プルタブを開ける。 「あいつ、前にも俺を通して、お前の音に触ろうとしたことがある」 凪の手が止まった。 「俺、知らねぇ」 「言ってねぇからな」 「何で」 「断ったから」 「何を」 紫月は缶を持ったまま、窓の方を見た。 「お前の音を、外の都合で動かす話」 凪は少し黙った。 「……ふうん」 「何だよ」 「別に」 「気持ち悪い返事すんな」 凪は水のボトルをテーブルへ戻した。 「紫月が止めたなら、いい」 今度は紫月が黙る。 「簡単に言うな」 「簡単じゃねぇから言ってんだろ」 紫月は顔をしかめた。 「そういう返し、昔から腹立つんだよ」 凪は少しだけ笑った。 紫月は缶コーヒーをひと口飲む。 「あの頃のあいつ、お前の音を数字で見てた」 凪の目がわずかに動いた。 「数字?」 「再生数。海外。市場規模。伸び率」 窓の向こうを、救急車の音が遠く流れていく。 「間違ってるとは思わねぇよ。そういう世界だしな。でも、俺は嫌だった」 「うん」 「凪の音を、そっちから見るなって思った」 凪は何も挟まずに聞いている。 普段ならどこかで茶化すはずなのに、それがないことが紫月には少しやりにくかった。 「だから断った」 「うん」 「それだけだ」 「それだけじゃねぇだろ」 紫月は凪を見る。 「何が」 「俺に言わないで止めた」 「言う必要なかった」 「そうかよ」 「そうだよ」 凪はテーブルにあったピックを指先で転がした。 「じゃあ、ありがとな」 紫月は眉を寄せる。 「今さら言うな」 「今聞いたから今言った」 「ほんと腹立つな」 凪はまた少し笑い、そばに置いていたのど飴の袋を軽く振った。 「でも今は飴くれる」 紫月はその袋を見る。 凪が短いコーラスを入れたことまで聴いていたと言って、月城が置いていったものだった。 昔は自分を通して凪の音を見ようとしていた男が、今は凪の喉を気にしている。 紫月はもう一度舌打ちした。 「変わりすぎだろ」 「いいじゃん」 「いいのかよ」 「音聴いて、飴くれるだけなら」 凪は少し考えてから付け足した。 「あと、飯」 紫月は呆れたように見る。 「もう懐いてんじゃねぇか」 「懐いてねぇ」 「懐いてる奴の否定だ、それ」 「うるせぇ」 フロアの入口が開き、高澤廉が資料を片手に入ってきた。 「まだいたのか」 「いた」 紫月は顔を上げる。 「月城、帰ったか?」 高澤が頷いた。 「少し前に。何も言わずに」 凪がのど飴の袋を持ち上げる。 「飴くれた」 高澤の足が少し止まった。 「……飴?」 「のど飴」 珍しく、高澤が笑った。 「かなり気に入られてるな」 凪は面倒そうに眉を寄せる。 「ファンらしいし」 「ファンっていうには、昔はもう少し面倒だったけどな」 紫月が言うと、凪は袋を指先で揺らした。 「今はこれ」 「変わりすぎだろ」 「さっきも聞いた」 「何回でも言うわ」 高澤は持っていた資料を閉じた。 「月城さんは、さっきも何も要求しなかった」 紫月が顔を上げる。 「要求?」 「収録素材の確認も、展開条件も、次の打ち合わせも、後日でいいと言って帰った」 「……へえ」 「今日は、本当に聴きに来ただけらしい」 凪は手の中ののど飴を見る。 「聴いてるだけなら、別にいい」 紫月はソファへ背を預け、天井を見上げた。 昔、自分を通して凪の音を見ていた男が、今は何も求めずに凪の音を聴き、喉を気にして飴を置いて帰る。 「……ほんと分かんねぇな」 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。 凪の手の中で、のど飴の袋が小さく鳴る。 紫月はその音を聞きながら、しばらく天井を見ていた。

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