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第6話 甘い人
アトラボ四階のR&Dフロアは、遅い時間になると人の気配が一気に薄くなる。
奥の会議室だけはまだ灯りがついていて、机の上には資料が何束も広げられていた。モニターの青白い光が紙の端へ落ち、窓の向こうでは東京の灯りが途切れず続いている。
高澤廉はタブレットを操作し、数字の並んだ画面を切り替えた。
「欧州側の権利処理、今週中に一次整理できます」
向かいの席では、月城玲士が資料へ目を通している。
「急がなくていい。雑に急ぐと後で倍かかる」
「分かってます」
「君は分かっていて速いから困る」
高澤が小さく笑った。
「褒め言葉として受け取ります」
モニターには、Fluctuation Crossの海外反応が並んでいた。
字幕を付けた転載、リアクション動画、分析系チャンネル、短く切り出された映像。地域ごとの数字も、時間を追うごとに動いている。
高澤が北米の欄を開く。
「ここは伸びます。ただ、先に線を引かないと荒れます」
「引こう」
月城はすぐに答えた。
「本人の意図と違う文脈で消費される前に」
「了解です」
会議室のドアが開いた。
相沢涼が紙コップを三つ持って入ってくる。
「おつかれさまー」
誰に向けるでもなく言いながら、机へコーヒーを置いた。
高澤が顔を上げる。
「相沢、どうした」
「下で煮詰まってる人たち多かったから、糖分配給」
相沢は月城の前にも紙コップを置く。
「玲士さんはブラックでしょ」
「よく分かってるね」
「最近ずっと見てるから」
月城が少し笑う。
「監視かな」
「観察です」
相沢は空いていた椅子へ座り、机の資料へ目を落とした。
「へえ。守ってくれてるんだ」
高澤がタブレットの画面を閉じる。
「ざっくり言うとそうなる」
「ざっくりすぎるな」
相沢は月城を見る。
「玲士さん、最近うちの凪に甘すぎない?」
高澤の手が一度止まった。
月城は表情を変えない。
「何の話だい」
「のど飴とか」
「喉は大事だ」
「焼き鳥も行ったんでしょ」
「食事は必要だ」
「収録も毎回来てる」
「仕事の確認だよ」
相沢は椅子の背へ身体を預けた。
「全部、口実っぽいなあ」
高澤はタブレットへ視線を戻したが、指は動かしていなかった。
月城はコーヒーを一口飲む。
「君は何が言いたいんだい」
「凪のファンなんだなって」
会議室が少し静かになった。
月城は相沢を見たあと、紙コップを机へ戻した。
「否定はしない」
高澤の指がタブレットの上で止まる。
「認めるんですね」
「本物の音は、好きになった方が得だ」
相沢が声を立てて笑った。
「いいね、それ」
月城は続ける。
「ただし、甘やかしてはいない」
「ほんとに?」
「彼は放っておいても進む。邪魔しないようにしているだけだ」
相沢の表情から、少しだけ笑いが薄くなった。
「……それ、分かってる人少ないよ」
高澤も頷く。
「管理したくなる人は多いです」
「だろうね」
相沢は紙コップを両手で持った。
「凪って、捕まえた瞬間つまんなくなるから」
月城の目が少し細くなる。
「君もそう思うか」
「そりゃ毎日見てるし」
二人の間に、短い理解が通った。
高澤は机の資料を揃え直す。
「制度の話に戻します」
相沢がすぐに口を挟んだ。
「えー、真面目」
「邪魔するな」
「玲士さん、どうします? 凪のファンクラブ作ります?」
「やめてくれ」
「会員番号一番で入る?」
「やめてくれ」
「グッズは耳栓とか」
高澤は資料の端を揃えながら言った。
「耳栓は、ファングッズとして矛盾している」
月城がそこで少し笑った。
さっきまで資料と数字ばかりだった会議室の空気が、いつの間にか軽くなっている。
高澤は肩の力を抜いた。
「……でも助かってますよ。外側に月城さんがいてくれて」
月城は短く答える。
「内側がいいからだ」
相沢は紙コップを持って立ち上がった。
「じゃ、二人とも頑張って。凪は俺が適当に遊ばせとくから」
「適当に、が一番怖い」
高澤が言う。
「大丈夫大丈夫」
相沢はドアの前で振り返った。
「玲士さん」
「うん?」
「明日、凪のリハ来る?」
月城は少し考えた。
「……時間が合えば」
相沢が笑う。
「甘いなあ」
ドアが閉まった。
高澤はタブレットを開き直し、月城は残っていたコーヒーを飲み干す。
資料も数字も何も変わっていない。
それでも、相沢が置いていった軽さだけが、会議室にしばらく残っていた。
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