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第7話 聴く専門

アトラボ四階の会議室は、少し前に灯りを落としたばかりだった。 廊下には人の気配がほとんどなく、閉じた扉の向こうで高澤廉がまだ資料をまとめている。相沢涼の姿はいつの間にか消えていた。 月城玲士はジャケットを片腕に掛け、エレベーターへ向かって歩いていた。 手の中でスマートフォンが震える。 海外番号からの着信だった。 画面を一度だけ確認し、そのまま伏せる。少ししてまた震えたところで、月城は短く息を吐いた。 「人気者だな、おじさん」 廊下の先から声がした。 振り向くと、凪隼人がギターケースを肩に掛けて立っている。リハーサルを終えたばかりなのか、髪にはまだ少し汗が残っていた。 「まだいたのかい」 「リハ終わった」 凪はそのまま近づいてくる。 「帰るの?」 「そのつもりだった」 「ふーん」 凪は少し考えるように天井を見た。 「音、聴いてく?」 月城のスマートフォンが、また手の中で震えた。 英語の通知が画面へいくつも並ぶ。 月城は数秒だけそれを見て、電源ボタンを押した。 画面が暗くなる。 「聴く」 凪は満足そうに頷いた。 「こっち」 エレベーターには向かわず、非常階段の扉を開ける。 月城は何も言わず、その後ろをついて上がった。 最後の扉を押し開けると、夜風と一緒に草木の匂いが流れ込んできた。 屋上には小さな庭園が整えられていた。 低い植栽の間を曲線の小径が通り、ところどころに置かれた間接照明が葉の裏を淡く照らしている。小さな樹木の向こうには、東京の夜景が広がっていた。 建物の中とは違う静けさがある。 凪は庭園の奥にあるベンチまで歩き、ギターケースを足元へ置いて腰を下ろした。 「貸し切り」 「贅沢だね」 「たまにある」 月城も少し離れた場所へ座る。 凪はギターを取り出し、チューニングを合わせながら横目で月城を見た。 「おじさん、聴く専門?」 「そうかもしれない」 「鳴らすのは?」 月城は庭の向こうへ視線を向けた。 「もう何年も、鳴らしていない」 凪の指が止まる。 「何で」 「必要なくなった」 「つまんねぇな」 月城が少し笑った。 「厳しいね」 「だって、あるのに使わねぇの、もったいねぇだろ」 風が枝を揺らし、葉の擦れる音が二人の間へ入った。 月城はしばらく黙っていた。 「昔は歌っていたよ」 「へえ」 「大学の頃に少し。売れなかったけど」 凪は弦を軽く鳴らした。 「別に売れなくてよくね?」 何でもないことのように言う。 「鳴ってたなら、それでいい」 月城は凪を見た。 長い時間のどこかへ置いてきたものを、その一言だけで拾われたような気がした。 凪はギターを構える。 「歌えよ」 「今ここで?」 「今ここで」 「無茶を言う」 「聴く専門なんだろ?」 月城は声を出さずに笑った。 「君、たまに乱暴だね」 「たまにじゃねぇよ」 凪は柔らかいコードを鳴らした。 先へ急がず、次の音を待つように少し間を空ける。 「ほら」 月城は夜景から空へ視線を上げた。 一度息を吸う。 最初に出た声は小さかった。 少し擦れた低い声だったが、芯は残っている。 凪は何も言わず、その声の高さへ合わせてコードを変えた。 二度目のフレーズでは、月城の声が少しだけ前へ出る。 東京の風と葉擦れの間に混じりながら、長く使われていなかった声がゆっくりほどけていった。 一曲にはならない。 途中で止まった歌だった。 それでも、音はちゃんとそこにあった。 月城の声が途切れると、庭には葉の擦れる音が戻ってきた。遠くを走る救急車の音が、街の下から細く上がってくる。 凪はギターを膝へ戻した。 「出るじゃん」 月城は苦笑する。 「君のギターが上手い」 「逃げるなよ」 「厳しいな」 スマートフォンがまた震えた。 今度は月城も画面を見ながら笑った。 「現実に戻れと言われてる」 「無視しろ」 「それは無理だ」 月城は立ち上がり、片腕に掛けていたジャケットを羽織った。 ベンチに座ったまま、凪が言う。 「また歌えよ」 月城の手が止まる。 少しだけ間を置いてから、振り返らずに答えた。 「……時間が合えば」 凪が吹き出した。 「それ、最近の口癖?」 月城も笑った。 「そうかもしれない」 月城が屋上を出ると、扉が静かに閉じた。 凪は一人になった庭園で、さっき月城が出した音を思い出す。 同じコードをもう一度鳴らした。 「……聴く専門、ね」 夜風が葉を揺らし、その音の上へギターが薄く残った。

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