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第8話 少し若い
朝の光が、アトラボ三階のラウンジへ斜めに入り込んでいた。
まだ出勤する人は少なく、窓際の床には明るい帯が伸びている。フロアの奥ではサーバーの低い音が続き、カウンターでは起動したばかりのコーヒーマシンが静かに動いていた。
月城玲士はラウンジの端に座り、コーヒーを片手にメールを返していた。
海外案件の確認、契約に関する連絡、時差のある相手から届いた返信。画面を閉じても、次の通知がすぐに入る。
それでも、今朝は指の動きがいつもより軽かった。
自動ドアが開き、相沢涼が入ってくる。
パーカー姿で、髪にはまだ少し寝癖が残っていた。片手にはコンビニの袋を持っている。
「おはようございまーす」
間延びした声が、まだ静かなラウンジへ広がった。
相沢は月城を見つけ、そのまま向かいのソファへ座る。
「朝から働いてるんだな、玲士さん」
「君こそ、朝からずいぶん緩い格好だ」
「褒め言葉として受け取ります」
相沢は袋からサンドイッチを取り出した。
「凪、まだ来てない?」
「見ていない」
月城は短く答え、画面へ視線を戻した。
相沢は包装を開きながら、その横顔をしばらく見ている。
「……何だ」
「いや」
サンドイッチをひと口かじってから、もう一度月城を見る。
「今日ちょっと若いなって」
月城の指が止まった。
「意味が分からない」
「顔」
「雑だな」
「雰囲気かな」
相沢は笑いをこらえるように続けた。
「三歳くらい戻ってる」
「失礼だ」
月城はコーヒーを飲み、何事もなかったようにメールへ戻る。
相沢は少しだけ目を細めた。
「何かあった?」
「別に」
「へえ」
「何もない」
「ふーん」
月城は返事をせず、次のメールを開いた。
フロアの奥では空調の低い音が続き、カウンターでは起動したばかりのコーヒーマシンが静かに動いていた。
相沢は袋から二つ目のパンを取り出した。
「屋上?」
月城の手が完全に止まった。
少し遅れて顔を上げる。
「……なぜそう思う」
「風の匂いする」
「非科学的だな」
「勘はだいたい当たる」
相沢は楽しそうに笑った。
「で、凪といたんでしょ?」
「少し」
「何したの」
「音を聴いた」
「だけ?」
月城は答えなかった。
相沢はパンを持ったまま、しばらくその顔を見る。
「ああ」
「何だ」
「声、出したな」
月城の眉がわずかに上がった。
「……なぜ分かる」
相沢はサンドイッチを袋の上へ戻した。
「分かるよ」
声から、さっきまでの軽さが少しだけ抜ける。
「戻ってくる人の顔、何人か見てきたから」
月城は窓の外へ目を向けた。
朝の光が向かいのビルのガラスへ反射し、細かく揺れている。
「大したものじゃない」
「そういう人ほど、大したものなんだよ」
相沢はもう一度パンを手に取った。
「あとさ」
「何だ」
「昔、歌ってたでしょ」
月城の視線が戻る。
「……知っていたのか」
「玲士さん、声の残り方が、聴くだけの人じゃない」
月城はしばらく何も言わなかった。
やがてコーヒーを机へ置く。
「……少しだけ歌っていた」
「売れなかった?」
「売れなかった」
「いいね」
月城は思わず笑った。
「何がいい」
「ちゃんと人間っぽい」
「君は時々失礼だな」
「時々じゃないです」
自動ドアがまた開いた。
凪隼人が水のペットボトルを持って入ってくる。髪は少し乱れたままで、まだ眠気の残る顔をしていた。
「……朝からうるせぇ」
相沢がすぐに振り向く。
「おはよう。凪、玲士さん若返ってるよ」
月城は額へ手を当てた。
「君は本当に失礼だな」
「凪、なんでか知ってる?」
凪は月城を見る。
昨夜の屋上で聴いた声を思い出したのか、目元が少しだけ緩んだ。
「出てたな」
軽い言い方だった。
月城は小さく息を吐く。
「君たちは、朝から容赦がない」
凪は空いていたソファへ座った。
「おじさん、次はサビまでな」
「要求が増えている」
「進捗管理」
相沢が吹き出した。
「やめろって。高澤の言葉うつってる」
凪は笑いながら背もたれへ身体を預けた。
「コーヒー」
「自分で淹れろ」
相沢が言う。
「歌った人が淹れて」
「巻き込まないでくれ」
月城が立つ気配を見せないまま答えると、相沢がまた笑った。
凪もペットボトルを膝へ置いたまま笑っている。
人の少なかったラウンジに、三人の声が重なった。
窓の外では、朝の東京がもう動き始めていた。
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