8 / 23

第8話 少し若い

朝の光が、アトラボ三階のラウンジへ斜めに入り込んでいた。 まだ出勤する人は少なく、窓際の床には明るい帯が伸びている。フロアの奥ではサーバーの低い音が続き、カウンターでは起動したばかりのコーヒーマシンが静かに動いていた。 月城玲士はラウンジの端に座り、コーヒーを片手にメールを返していた。 海外案件の確認、契約に関する連絡、時差のある相手から届いた返信。画面を閉じても、次の通知がすぐに入る。 それでも、今朝は指の動きがいつもより軽かった。 自動ドアが開き、相沢涼が入ってくる。 パーカー姿で、髪にはまだ少し寝癖が残っていた。片手にはコンビニの袋を持っている。 「おはようございまーす」 間延びした声が、まだ静かなラウンジへ広がった。 相沢は月城を見つけ、そのまま向かいのソファへ座る。 「朝から働いてるんだな、玲士さん」 「君こそ、朝からずいぶん緩い格好だ」 「褒め言葉として受け取ります」 相沢は袋からサンドイッチを取り出した。 「凪、まだ来てない?」 「見ていない」 月城は短く答え、画面へ視線を戻した。 相沢は包装を開きながら、その横顔をしばらく見ている。 「……何だ」 「いや」 サンドイッチをひと口かじってから、もう一度月城を見る。 「今日ちょっと若いなって」 月城の指が止まった。 「意味が分からない」 「顔」 「雑だな」 「雰囲気かな」 相沢は笑いをこらえるように続けた。 「三歳くらい戻ってる」 「失礼だ」 月城はコーヒーを飲み、何事もなかったようにメールへ戻る。 相沢は少しだけ目を細めた。 「何かあった?」 「別に」 「へえ」 「何もない」 「ふーん」 月城は返事をせず、次のメールを開いた。 フロアの奥では空調の低い音が続き、カウンターでは起動したばかりのコーヒーマシンが静かに動いていた。 相沢は袋から二つ目のパンを取り出した。 「屋上?」 月城の手が完全に止まった。 少し遅れて顔を上げる。 「……なぜそう思う」 「風の匂いする」 「非科学的だな」 「勘はだいたい当たる」 相沢は楽しそうに笑った。 「で、凪といたんでしょ?」 「少し」 「何したの」 「音を聴いた」 「だけ?」 月城は答えなかった。 相沢はパンを持ったまま、しばらくその顔を見る。 「ああ」 「何だ」 「声、出したな」 月城の眉がわずかに上がった。 「……なぜ分かる」 相沢はサンドイッチを袋の上へ戻した。 「分かるよ」 声から、さっきまでの軽さが少しだけ抜ける。 「戻ってくる人の顔、何人か見てきたから」 月城は窓の外へ目を向けた。 朝の光が向かいのビルのガラスへ反射し、細かく揺れている。 「大したものじゃない」 「そういう人ほど、大したものなんだよ」 相沢はもう一度パンを手に取った。 「あとさ」 「何だ」 「昔、歌ってたでしょ」 月城の視線が戻る。 「……知っていたのか」 「玲士さん、声の残り方が、聴くだけの人じゃない」 月城はしばらく何も言わなかった。 やがてコーヒーを机へ置く。 「……少しだけ歌っていた」 「売れなかった?」 「売れなかった」 「いいね」 月城は思わず笑った。 「何がいい」 「ちゃんと人間っぽい」 「君は時々失礼だな」 「時々じゃないです」 自動ドアがまた開いた。 凪隼人が水のペットボトルを持って入ってくる。髪は少し乱れたままで、まだ眠気の残る顔をしていた。 「……朝からうるせぇ」 相沢がすぐに振り向く。 「おはよう。凪、玲士さん若返ってるよ」 月城は額へ手を当てた。 「君は本当に失礼だな」 「凪、なんでか知ってる?」 凪は月城を見る。 昨夜の屋上で聴いた声を思い出したのか、目元が少しだけ緩んだ。 「出てたな」 軽い言い方だった。 月城は小さく息を吐く。 「君たちは、朝から容赦がない」 凪は空いていたソファへ座った。 「おじさん、次はサビまでな」 「要求が増えている」 「進捗管理」 相沢が吹き出した。 「やめろって。高澤の言葉うつってる」 凪は笑いながら背もたれへ身体を預けた。 「コーヒー」 「自分で淹れろ」 相沢が言う。 「歌った人が淹れて」 「巻き込まないでくれ」 月城が立つ気配を見せないまま答えると、相沢がまた笑った。 凪もペットボトルを膝へ置いたまま笑っている。 人の少なかったラウンジに、三人の声が重なった。 窓の外では、朝の東京がもう動き始めていた。

ともだちにシェアしよう!