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第9話 ちゃんと食えよ
昼前のVERTEX MUSIC GROUP本社は、外から見ても中から見ても動きが速かった。
ガラス張りの高層ビルは空の色を映して冷たく光り、広い車寄せには黒い車が途切れず入ってくる。吹き抜けのロビーでは、受付スタッフが来客を捌き、社員証をかざした人たちがセキュリティゲートを抜けていった。
壁一面の大型ビジョンには所属アーティストの最新MVが流れている。音量は抑えられているのに、細かく切り替わる映像だけで忙しさが伝わってくる。
数字も締切も流行も、立ち止まる人間を待たない場所だった。
その自動ドアから、凪隼人が入ってきた。
薄いグレーのシャツに黒のワイドパンツ。サングラスを頭へ掛け、片手には黒い保冷バッグを提げている。
建物の雰囲気とはあまりにも違うその荷物に、近くにいた何人かが顔を上げた。
「あれ、凪隼人だよな」
「本人?」
「なんでここに」
小さな声が重なる。
凪は気にする様子もなく、受付までまっすぐ歩いた。
「すみません」
女性スタッフが姿勢を正す。
「はい」
「月城玲士さん、いますか」
表情がわずかに動いた。
「……月城、でございますか」
「うん。月城玲士さん」
後ろを通りかかった若い社員が小さくむせた。
凪はそちらを見ない。
「お約束はございますか」
「ない」
「ご用件を伺ってもよろしいでしょうか」
凪は持っていた保冷バッグを少し上げた。
「弁当届けに来た」
受付の女性は笑顔を崩さなかったが、一度だけ瞬きをした。
「少々、お待ちください」
内線へ手を伸ばす。
連絡を待つ間、凪はロビー中央の大型ビジョンを見上げた。
派手な光の中で映像が次々に切り替わる。
「忙しねぇな」
誰に言うでもなく呟く。
数分もしないうちに、奥の専用エレベーターが開いた。
月城玲士がジャケット姿のまま出てくる。
歩く速度は普段より少し速く、進路にいた社員たちが自然に道を空けた。
凪の前まで来ると、月城はまず保冷バッグを見た。
「……どうしたんだい」
凪は当然のように差し出す。
「弁当」
「それは見れば分かる」
「昼、食ってねぇだろ」
月城はすぐには答えなかった。
「会議続きでね」
「だと思った」
凪はそのままバッグを押しつける。
「いつも飯食わせてもらってるし」
「君が来る必要はなかった」
「近く通った」
月城は凪を見た。
どう見ても、それだけのために来た人間の顔をしている。
けれど、指摘はしなかった。
凪は少し眉を寄せる。
「玲士、忙しいんだろ」
今度は名前で呼んだ。
「ちゃんと食えよ。その方が声出る」
少し離れた受付で、誰かの手が止まった。
月城も数秒、何も言わなかった。
大きな契約でも会議でも表情を崩さない男が、黒い保冷バッグを持ったまま凪を見ている。
「……ありがとう」
凪は頷いた。
「じゃ、帰る」
「待ちなさい」
「何」
「せめて上でコーヒーくらい飲んでいけ」
「いらね」
「即答だね」
「忙しい」
月城は小さく息を吐いた。
周囲では、仕事を続けているふりをしながらこちらを気にしている人間が増えている。
「五分だけくれ」
「何に」
「食べる」
凪は少し考えたあと、肩をすくめた。
「早くしろよ」
月城が笑った。
「君は本当に遠慮がない」
「ファンだろ?」
「……そんなところだ」
二人で専用エレベーターへ向かう。
扉が閉まり、凪と月城の姿が見えなくなると、ロビーのあちこちで止めていた声が戻った。
「今の見た?」
「凪隼人が弁当……?」
「月城専務のこと、玲士って呼んでたぞ」
「どういう関係?」
答えられる人間はいなかった。
ただ、さっきまで凪が持っていた黒い保冷バッグだけが、あの磨かれたロビーには妙に似合わなかった。
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