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第10話 ちゃんとしてる音
月城玲士の執務室は、VERTEX MUSIC GROUP本社の最上階、その角にあった。
大きな窓の向こうには東京の街が広がり、室内には分厚い机と整えられた資料、壁一面のレコードや賞盾が並んでいる。
けれど今、月城が見ているのはそのどれでもなかった。
机の中央に、黒い二段の弁当箱が置かれている。
飾り気のない、使うためだけのものだった。
向かいのソファでは、凪隼人がすっかりくつろいでいた。
「まだ食わねぇの?」
「開ける前に緊張している」
「何でだよ」
「君の作るものだからだ」
凪は呆れたように月城を見る。
「めんどくせぇな、おじさん」
月城は笑い、弁当箱の蓋を開けた。
上の段には白米が詰められていた。
炊きたてをそのまま閉じ込めたのではなく、一度きちんと冷ましてから詰めた米だった。粒が潰れず、ほどよく空気を含んでいる。中央には黒胡麻が少し振られ、端に梅干しがひとつ置かれていた。
「……ほう」
二段目には卵焼きと鶏の照り焼き、小松菜のおひたし、人参のきんぴら、蓮根の素揚げが収まっていた。
卵焼きの焼き色は薄く、角も崩れていない。照り焼きも色はしっかりついているのに重たく見えず、野菜の色もそれぞれ残っている。
ひとつひとつは目立たないのに、弁当箱の中では妙に収まりがいい。
月城はしばらく見ていた。
凪が言う。
「何」
「君は本当に困る」
「は?」
「こういうところまで、才能でやるんだね」
「普通だろ」
「普通ではない」
月城は箸を取り、まず米を口へ運んだ。
噛んだところで手が止まる。
「……温度がある」
「冷めてるけど」
「そういう意味じゃない」
硬すぎず、柔らかすぎない。
噛めば静かに甘さが残り、隣のおかずを邪魔しない。
続けて卵焼きを食べると、最初に出汁が来て、そのあとに卵の香りが残った。
甘さは強くない。
「これは……」
凪は水を飲みながら言う。
「砂糖、少しだけ」
「分かる」
「うそつけ」
「分かるよ」
次に鶏へ箸を伸ばす。
皮目には香ばしさがあるが、中は柔らかい。タレも濃くしすぎず、米と一緒に食べたときにちょうどいいところで止まっている。
月城は思わず笑った。
「君、何なんだい」
「さっきからそればっかだな」
「音の人間だと思っていた」
「音の人間だよ」
「料理も音だと言うのかい」
凪は少し考えた。
「似てるかもな」
箸で蓮根をつまむ。
「火ぃ入れるタイミングとか、塩入れる位置とか」
ひと口かじってから続ける。
「リズムあるし」
月城は小さく息を吐いた。
「参ったな」
「大げさ」
「違う」
月城はもう一度、弁当箱へ目を落とした。
「高い店の料理は、何度も食べてきた」
東京でも、海外でも、いくらでも機会はあった。
「けれど、こういう食事の方が人を立て直す」
凪は何も言わなかった。
月城は米をもうひと口食べる。
「塩分がどうこうじゃない。栄養だけでもない。食べる人間が、今日ちゃんと動けるように作ってある」
窓の向こうを、ヘリコプターの音が遠く流れていった。
凪は水のボトルを膝の上で転がした。
「昼抜いてるやつ用だからな」
月城はそこで声を立てて笑った。
「設計思想まであるのか」
「知らねぇよ」
「あるよ」
月城は小松菜を箸で持ち上げた。
「この小松菜は午後の眠気を飛ばす配置だ」
「知らねぇって」
「人参は噛ませて脳を起こす」
「うるせぇな」
「梅干しは会議三本目対策」
凪が吹き出した。
「おじさん、食レポ長ぇ」
「まだ序章だ」
月城は真顔で続ける。
「この弁当の本質は、午後三時に分かる」
「何で」
「疲れた時、君の卵焼きを思い出す」
「こわ」
今度は二人とも笑った。
月城は箸を置き、少しだけ凪を見る。
「凪」
「ん?」
「ありがとう」
短い言葉だった。
凪は視線を外し、手の中の水を一度振った。
「返しただけ」
「何を」
「飯」
月城は静かに頷いた。
「なら、次は私が食べさせる番だな」
凪はすぐに答える。
「次はラーメン」
「落差が激しい」
「うまけりゃ何でもいい」
月城は笑い、もう一度卵焼きへ箸を伸ばした。
窓の外では、東京の昼が進んでいる。
机の上には契約書も資料もある。
その真ん中で、少し冷めた弁当だけが、月城の午後を先に整えていた。
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