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第11話 見えなくなる

凪の弁当を食べてから、月城玲士は以前ほど簡単に昼食を抜かなくなっていた。 その日の午後、月城は都内最大級のアリーナへ向かった。 開演前から会場の外には人が溢れ、物販列が外周に沿って伸びている。入場ゲートへ向かう人の波の上では、大型スクリーンが開演までの時間を刻んでいた。 月城は関係者入口から入り、客席中央に近い席へ案内された。 周囲より少し広く取られた特別席だったが、月城が見ているのは座席ではない。 天井には無数の照明機材が吊られ、可動式のトラスとスピーカータワー、四面のLEDスクリーンがステージを囲んでいた。床面にも発光パネルが組み込まれ、客が入っている今もスタッフが最後の確認を続けている。 以前からRidgelineのライブは大きかった。 ただ、アトリリンクスとの統合後は、使える金額そのものよりも、演出を支える技術の扱いが変わっている。 照明、映像、音響同期、配信制御。 これまでなら興行の予算だけで線を引いていた領域まで、アトラボの技術検証として動かせる。 その結果、演出側も照明班も映像班も、必要なところで遠慮をしなくなった。 月城はステージを見ながら小さく笑った。 「高澤らしい」 金を見せるためには使わない。 音を通すために必要なら、そこには使う。 客電が落ちた。 それまで客席に散っていた声が、一斉に歓声へ変わる。 低いSEが会場を這い、暗闇の中で四面スクリーンに文字が走った。 FLUCTUATION CROSS 床面のLEDがゆっくり脈打ち始める。 光が広がるたびに、ばらばらだった客席の呼吸まで揃っていく。 最初の音が落ちた瞬間、メインステージがせり上がった。 中央に相沢涼が立っている。 白い光が背後から入り、輪郭だけを先に浮かび上がらせた。 相沢が一声出す。 会場の温度が変わった。 月城は腕を組んだまま、いつものように音を追った。 声の抜け方、照明との噛み合い、観客の反応、最初の一曲としての強さ。 どれも見える。 相沢が前へ立つ時、Ridgelineにははっきりした形ができる。 構成があり、流れがあり、観客が熱を置く場所も分かる。 二曲目、三曲目と進むにつれ、ステージの景色が変わっていった。 都市の夜景が広がり、雨粒の映像が落ち、文字列が崩れ、天井から光の檻が降りてくる。 月城は途中までスマートフォンのメモへ短く打ち込み、海外配信の状況も確認していた。 そこまでは、仕事だった。 四曲目が終わる。 ステージが暗くなり、短い静けさのあと、一本のギターだけが鳴った。 月城の指が止まる。 中央の光がゆっくり開く。 そこに凪隼人がいた。 マイクスタンドは脇へ寄せられ、手にあるのはギターだけだった。 歓声の質が変わる。 相沢が前へ出る時の熱とは違う。 何かが始まる前のざわめきに近かった。 ここ数年のRidgelineは、相沢が正面に立つ形で安定している。 相沢が歌えば、曲の入口も観客の視線も迷わない。 それでも、時々だけ凪が前へ出る曲がある。 『夜光虫』のように、声より先にギターが空気を変えてしまう曲。 月城も知っている。 知っているつもりだった。 凪が最初のフレーズを鳴らした。 手の中にあるスマートフォンの画面は暗いままだった。 次の音へ、照明が少し遅れてついてくる。 さらにその次で、客席の呼吸が揃った。 凪はまだ歌っていない。 それでも中央にいる。 音そのものが前へ出ていた。 スマートフォンが何度か震えた。 月城は見なかった。 凪が中央に立つと、Ridgelineは完成された形から少し外れる。 何が起きるか決まりきらないまま、観客ごと先へ進んでいく。 危ういのに崩れない。 正確なのに、予定された場所へ収まらない。 月城は小さく息を吐いた。 「……そういうことか」 相沢が前にいる時は、全部見える。 凪が前にいる時は、その先が見えない。 曲が終わると、会場が揺れるほどの歓声が上がった。 月城は少し遅れて、自分も拍手していることに気づいた。 次の曲では相沢が戻り、何事もなかったように歌い始める。凪は一歩下がり、ギターを鳴らしながらいつもの位置へ戻った。 その入れ替わりにも無理がない。 誰が前に立つのかを固定しないまま、それでもバンドとして成立している。 終演後、客席の照明が戻る頃には、通路をスタッフが走り始めていた。 月城がまだステージを見ていると、高澤廉が通路側から近づいてくる。 「どうでした」 月城は少し考えた。 「困ったね」 「何がです」 「仕事にならなかった」 高澤が珍しく笑う。 「珍しいですね」 月城は立ち上がった。 ステージでは、すでに撤収の準備が始まっている。 「凪が前に立つと、数字に戻せない」 高澤もステージを見る。 「そういう人です」 月城は頷いた。 「知っていたつもりだった」 客席にはまだ余韻を引きずった声が残り、その向こうでスタッフがケーブルを回収している。 現実はもう戻り始めていた。 それでも、月城の耳にはあのギターが残っている。 「……まずいな」 「何がです」 月城はようやく高澤を見た。 「またファンになった」 高澤は少しだけ笑った。 「重症ですね」 月城は否定せず、もう一度だけステージへ目を向けた。

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