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第14話 あったかい方がうまい
アトラボ三階の作業フロアは、夜になると灯りが半分ほど落ちていた。
残っている人だけがそれぞれの机で静かに動き、モニターの明かりとキーボードの音が昼間より近く感じられる。少し離れた場所では誰かの笑い声も聞こえていた。
月城玲士はラウンジ端のテーブルで、ノートPCを開いたまま手を止めていた。
メールは返した。資料も確認した。
次の仕事を開こうとして、やめる。
視線の先では、凪隼人が床に座ってギターの弦を替えていた。ケースは開けたままで、周囲には工具やピックが散らばっている。
本人だけは妙に落ち着いていた。
「おじさん」
凪は顔も上げずに呼ぶ。
「うん?」
「今日、飯食った?」
「会食で少し」
「少しって何」
「前菜と説明だね」
凪がようやく顔を上げた。
「最悪だな」
近くのソファで、相沢涼が笑う。
「あるある。偉い人ほど飯食ってないんだよ」
「君は黙っててくれ」
「なんか俺には厳しくない?」
凪は最後の弦を張り終え、軽く音を鳴らした。
短い確認音がラウンジを抜けていく。
「弁当二回目って雑だろ」
月城は少し首を傾げた。
「比較対象が分からない」
「前やったし」
「そうだね」
凪は弦の張りをもう一度確かめた。
「なら、あったかい飯の方がうまい?」
ギターをケースへ戻し、肩へ掛ける。
「今日、来る?」
相沢の動きが止まった。
何か言いかけた後頭部を、高澤廉が資料を見たまま軽く叩く。
「痛っ」
「騒ぐな」
月城は凪を見た。
誘った本人は、もう水のボトルへ口をつけている。
「君の家に?」
「うん」
「急だね」
「飯食わせるだけだからな」
「それでもかなり急だよ」
「腹減ってんだろ」
月城は少し笑った。
「そうだね」
「じゃ、決まり」
相沢が堪えきれずに笑う。
「玲士さん、今の断るタイミングあった?」
「うるさいな」
高澤は資料をめくりながら言った。
「終電だけ確認してください」
「現実的だなあ」
「必要だ」
凪はもう出口へ向かっている。
「おじさん、早くしろよ」
「命令口調なんだね」
「飯作る側つえぇだろ」
月城はノートPCを閉じた。
「それは認める」
建物を出ると、春の夜気が少しだけ肌へ残った。
月城がスマートフォンを取り出しかけると、凪が横から言う。
「いらねぇ」
「まさか歩くのかい」
「近いし」
「君の近いは信用していない」
「歩ける距離」
実際、歩けない距離ではなかった。
ただ、月城が想像していたよりは長い。
住宅街を抜け、坂を一本上がり、信号を二つ渡ったところで、月城の歩幅が少し狭くなった。
凪が振り返る。
「遅ぇな。亀かよ」
「落ち着いて歩いているだけだよ」
「息上がってる」
「気のせいだ」
さらに進んだところで、月城はコンビニの灯りの前に足を止めた。
「少し休憩しよう」
凪が笑う。
「おじさんじゃん」
「最初からそう呼んでいただろう」
「運動してないだろ」
「しているよ」
「何を」
「身体を整える場所には行っている」
「筋トレしろよ」
月城は肩を揺らした。
「発想が体育会系だね」
凪は自販機で水を二本買い、そのうち一本を月城へ軽く放った。
「君はしてるのかい」
「体力作りはライブで必要だからな」
「理にかなっている」
「おじさんも筋肉使え」
「時間がない」
「口実だな」
月城は水を飲みながら笑った。
「君、年長者に容赦がないね」
「歩けなくなる前に言ってんだよ」
「優しさの形が雑だ」
少し休んでから、また並んで歩き出した。
凪の部屋は、駅から少し離れた低層マンションにあった。
派手さはないが管理は行き届いていて、共用廊下にも人の声はほとんどない。
「ここ」
エレベーターを降り、一番奥の部屋まで歩く。
凪が鍵を開けた。
中は広すぎず、物も多くない。ソファとテーブル、必要な場所だけを照らす照明。壁際にはギターが数本並び、その隣に機材ラックが置かれている。壁面の一部には吸音材も入っていた。
月城は靴を脱ぎながら室内を見回した。
「なるほど」
「何が」
「君が選びそうな部屋だ」
「俺が選んだし」
「そうだろうね」
凪はギターケースを壁際へ置き、そのままキッチンへ入った。
冷蔵庫から肉と玉ねぎ、味噌汁の具を出し、炊いてあった飯も用意する。
「座ってろ」
「命令が増えている」
「腹減ってる人に発言権ねぇだろ」
包丁の音が一定に続いた。
月城はダイニングの椅子へ座り、凪の手元を眺める。
フライパンへ油が入り、やがて肉の焼ける匂いが部屋まで広がった。
ギターを鳴らしていた部屋に、今は包丁と換気扇とフライパンの音がある。
月城は椅子の背へ身体を預けた。
「おじさん」
「うん?」
「寝るなよ」
「寝ていない」
「顔が寝る顔だ」
凪は笑いながら皿を運んできた。
生姜焼きに味噌汁、白い飯と浅漬け。
湯気がまだ上がっている。
「食え」
月城は箸を取った。
生姜焼きをひと口食べる。
熱のあとに生姜の香りが来て、甘さと塩気がゆっくり残る。
もう一口食べたところで、凪が眉を寄せた。
「まずい?」
「いや」
月城は飯も口へ運ぶ。
「かなりうまい」
凪が満足そうに頷いた。
「だろ」
「悔しいね」
「何が」
「何軒店を知っていても、勝てない夜がある」
凪は味噌汁を飲んだ。
「当たり前だろ」
食事を終える頃には、月城の肩から少し力が抜けていた。
凪は空いた皿を重ねたあと、壁際のギターを一本取ってソファへ座る。
「腹落ち着いた?」
「うん」
「じゃ、少し鳴らす」
月城が笑った。
「食後のサービスが手厚い」
凪は何でもない顔でコードを鳴らした。
さっきまで包丁や食器の音があった部屋に、今度はギターがゆっくり広がっていく。
月城は椅子へ身体を預け、その音を聞いた。
まだ身体には食事の熱が残っている。
「おじさん」
「うん?」
「次来るまでに体力つけとけ」
「善処するよ」
凪は少し笑い、次のコードへ指を移した。
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