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第15話 スーツじゃない日
夕方の東京には、まだ少し明るさが残っていた。
アトラボ一階の車寄せ前で、凪隼人はスポーツバッグを足元へ置き、スマートフォンを見ながら待っていた。
数分後、黒い車が静かに入ってくる。
後部座席から降りてきた月城玲士は、今日も隙のないスーツ姿だった。
「遅い」
「五分前だよ」
「俺基準では遅い」
「理不尽だね」
凪はスポーツバッグを肩へ掛けた。
「行くぞ」
「本当に行くのかい」
「言っただろ。体力つけろって」
月城は車を振り返り、ため息まじりに笑った。
「移動車からそのまま連行される役員は、そう多くないだろうね」
「役員ってジム行かねぇの?」
「行く人もいる」
「なら今日からそっち側だ」
凪はそれ以上取り合わず、先に歩き出した。
会員制のジムは、アトラボから二駅ほど離れた場所にあった。
ガラス張りの建物へ入ると、落ち着いた照明の受付の向こうで、ランニングマシンが一定の音を立てている。
月城は館内を見回した。
「ずいぶんちゃんとしてる」
「ちゃんとしてねぇと嫌だろ、おじさん」
「少しずつ理解されてきた気がする」
受付を済ませ、それぞれ更衣室へ入った。
凪は先に着替えを終え、ストレッチスペースで肩を回していた。
黒のドライTシャツに細身のトレーニングパンツ。ライブ前にも使っている、動くためだけの格好だった。
少しして更衣室の扉が開く。
月城が出てきた。
白に近いグレーのTシャツと、黒のトレーニングパンツ。装飾は何もないのに、姿勢が変わらないせいか、それだけで妙に整って見える。
凪は一度だけ月城を見てから、ストレッチへ戻った。
「……年のわりにちゃんとしてんな」
月城が眉を上げる。
「褒めているのか、失礼なのか判断に困るね」
「困っとけ」
凪は先にランニングマシンへ向かった。
最初は軽いウォーキングから始めた。
凪は慣れた手つきで速度を設定し、隣の月城には低めの数字を入れる。
「歩くだけでいい」
「それは助かる」
数分もすると、月城は正面の壁を見た。
「意外と単調だね」
「そういうもんだろ」
「景色が変わらない」
「ジムだからな」
「これは何分やるんだい」
凪が吹き出した。
「まだ半分も経ってねぇよ」
「君、楽しんでいるね」
「少しな」
十分ほどで、月城が停止ボタンを押した。
「一回、戦略会議だ」
「負けてんじゃねぇか」
「撤退は戦略だよ」
凪は笑いながら水を渡した。
「おじさんじゃん」
「その呼び方、今日だけやけに刺さるね」
休憩を挟み、次は筋力トレーニングのエリアへ移った。
凪がマシンの位置を調整し、月城が言われた通りにバーを引く。
「違う。肩に力入れんな」
「難しいな」
「仕事より簡単だろ」
「分野が違う」
凪は月城の後ろへ回り、バーの端を指で軽く叩いた。
「ここ。肩じゃなくて背中」
月城は一度動きを止める。
凪の手が触れているのはマシンだけだった。
「……了解」
もう一度バーを引く。
今度はさっきより動きが滑らかになった。
「いいね」
「指導が厳しい」
「金取るか?」
「それは困る」
凪が声を立てて笑った。
一時間ほど動く頃には、月城の回数もかなり減っていた。
疲れていても背中だけは丸くならない。
凪はそれを横目で見ながら、次の重りを戻した。
トレーニングを終えると、それぞれ更衣室へ入った。
凪は先にシャワーを済ませ、ラウンジのソファで水を飲んでいた。腕にも脚にも使った分だけ重さが残り、身体の熱はまだ下がっていない。
しばらくして、更衣室の扉が開いた。
月城が出てくる。
まだ乾ききっていない髪が少し額へ落ち、白いTシャツに黒のパンツという格好のままだった。
スーツもネクタイもない。
凪はボトルを口へ運びかけて、一度止めた。
月城がこちらを見る。
「どうした」
「何が」
「静かだ」
凪は水を飲んだ。
「疲れただけ」
「君が?」
「……違ぇよ」
月城が少し笑った。
「今日はよく分からない日だね」
凪は立ち上がり、スポーツバッグを肩へ掛けた。
「次、週二な」
「増えている」
「体力つけろ」
「君は容赦がない」
二人で受付を抜けると、スタッフが頭を下げた。
「お疲れさまでした」
外へ出る頃には、空の明るさはほとんど消えていた。
火照った肌に夜風が気持ちよく、凪は少し前を歩いていたが、すぐに月城が隣へ並ぶ。
「おじさん」
「うん?」
凪は前を向いたまま言った。
「その格好、たまには悪くねぇな」
月城の歩幅がわずかに緩んだ。
「それは、褒め言葉として受け取っていいのかな」
「勝手にしろ」
「そうするよ」
凪は返事をせず、そのまま歩いた。
月城も追い越さず、同じ速さで隣を歩いていた。
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