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第18話 羨ましい人
夜の東京には、昼の熱がまだ少しだけ残っていた。
月城玲士に連れてこられた店は、表通りから一本入った細い坂の途中にあった。小さな看板と木の扉、短い暖簾だけがあり、外からは中の様子がほとんど見えない。
「ここ」
月城が先に扉を開ける。
凪隼人は店先を見上げた。
「また高そうだな」
「そうでもない」
「その台詞、金あるやつしか言わねぇんだよ」
月城は笑った。
店内は静かだった。
奥へ長いカウンターが伸び、低い照明の下には炭の匂いがゆるく漂っている。客同士の声も自然に抑えられていて、騒がしくはないが息苦しさもない。
凪は店内を一度見回し、そのまま月城の隣へ座った。
カウンターの向こうでは、職人が魚を引き、焼き台の火を確かめている。
「何でも頼んでいい」
「その言い方、また金あるやつだな」
「今日は二回目だ」
「何が」
「君にそう言われた回数」
凪が吹き出した。
月城だけが酒を頼み、凪は烏龍茶にする。
最初に出た鯛の炙りをひと口食べ、凪は少しだけ目を細めた。
「……うま」
「それはよかった」
「でも量すくねぇ」
「そう言うと思った」
月城は楽しそうに笑った。
椀物、焼き物、季節の野菜など料理が続き、凪はどれも残さず食べていった。
量は少ない。それでも、出てくるものは結局どれもうまかった。
月城はグラスを置き、ふと口を開いた。
「Fluctuation Cross」
凪の箸が止まる。
「ん?」
「あれは、どういう経緯でできたんだい」
凪は少し考えたあと、スマートフォンを取り出した。
「……見た方が早い」
動画を開き、月城の方へ向ける。
画面の中では、夜の歩道橋を小笠原悠人が上がり、反対側から桐島航矢が歩いてくる。二人が中央で止まると、都市の光と距離の間に音の入る場所が生まれた。
凪のギターと相沢涼の設計が重なり、夜の街が少しずつ動き出す。
月城は最後まで黙って見ていた。
「これは返したかったんだよ」
凪が言う。
「返す?」
「元がある」
検索画面へ戻り、別の動画を開く。
ロンドン研究所の白い部屋に、桐島智也が立っている。
余計な演出のない空間で、榊悠司の作った音に智也の声だけが置かれていた。
『Fluctuation』
揺れを隠さない声だった。
凪は画面を見たまま言う。
「腹立ったんだよ」
月城が凪を見る。
「何に」
「これ、ちゃんと届いてたから」
凪は少しだけスマートフォンを持ち直した。
「遠くで、二人だけで、勝手に完成してんのが腹立った」
言葉は乱暴だったが、声は静かだった。
「だから作った」
「Crossを?」
「祝うなら、こっちも本気で返すだろ」
炭火が焼き台の奥で揺れている。
月城は何も言わず、画面の中で消えていく智也の最後の声を見ていた。
凪が横目で見る。
いつもならすぐに何か返す月城が、珍しく黙っている。
「……おじさん?」
月城は少し遅れて息を吐いた。
「羨ましいと思った」
凪が眉を寄せる。
「何が」
「全部だよ」
月城は笑わなかった。
「感情が先にあって、作品になって、遠くへ届いて、誰かが返す」
指先でグラスの縁に触れる。
「そういうものを、私は随分長く、見送る側にいた」
凪は何も言わなかった。
月城はグラスから手を離し、少しだけ姿勢を戻す。
「……悪いね。食事の席で湿っぽい話をした」
「別に」
凪は烏龍茶を飲んだ。
喉が思ったより乾いている。
「おじさんにも、鳴ってた時あんだな」
月城が目を細めた。
「失礼だね」
「今は数字の話ばっかしてそうだし」
「仕事だからね」
「ふーん」
追加の焼き物が置かれる。
凪はそれをひと口食べてから、料理へ目を落としたまま聞いた。
「……何でやめたの」
月城の箸が止まる。
カウンターの向こうで、炭を動かす音がした。
「難しい質問だね」
「答えろよ」
月城は少し笑った。
「やめたつもりは、一度もなかったよ」
凪の手が止まった。
すぐには次の言葉が出なかった。
月城も、それ以上は続けない。
店を出ると、坂の上から涼しい風が下りてきた。
月城が呼んでいたタクシーが、通りの端へ止まる。
二人で後部座席へ乗り込んだ。
ドアが閉まると、さっきまで聞こえていた街の音が遠くなる。
車がゆっくり坂を下り始めた。
月城はいつも通りのスーツ姿で、窓の外を見ている。
それでも凪には、店へ入る前と同じ人には見えなかった。
やめたつもりは、一度もなかった。
その言葉が、まだ残っている。
「おじさん」
「何?」
呼んだものの、続きが出てこない。
「……別に」
月城は何も聞かなかった。
窓の外では、夜の東京が流れていく。
しばらくして、タクシーが凪の家の前へ止まった。
「じゃあな」
「うん。おやすみ」
凪は車を降りた。
ドアが閉まり、月城を乗せた車が走り出す。
家へ入って靴を脱いでも、あの言葉だけがまだ残っていた。
やめたつもりは、一度もなかった。
凪は玄関に立ったまま、しばらく動かなかった。
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