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第21話 好きでもないのに

朝の光が、アトラボ三階の床へ長く伸びていた。 まだ人は少なく、ラウンジではコーヒーメーカーが静かに動いている。少し離れたところで椅子を引く音がして、そのあとまたフロアは落ち着いた。 凪隼人はいつもより早く来ていた。 窓際の席でノートPCを開き、ゲーム案件のデータを表示したまま止まっている。 画面には港町のステージ。 マウスに指は乗っているのに、ほとんど動かない。 頭の中では、別の音が回っていた。 Blue Hourのサビ。 昨夜、電話越しに月城玲士から言われた言葉まで一緒に残っている。 『今は君がそれだよ』 凪は小さく息を吐いた。 「……うるせぇ」 机の下で指先が動く。 無意識にコード進行をなぞっていた。 入口のドアが開く。 凪は反射的に顔を上げた。 入ってきたのは、紙袋と書類を抱えた社員だった。 すぐに画面へ戻る。 向かいの席で、相沢涼が笑った。 「何してんの朝から」 「仕事」 「してない顔だな」 「うるさい」 相沢はパンの袋を開けながら、凪のPCを覗く。 「港町ステージ、止まってんじゃん」 「煮詰まってる」 「珍しい」 凪は返事をせず、低く鼻歌を漏らした。 短い旋律だった。 相沢の手が止まる。 「何それ」 「何が」 「今の鼻歌」 「知らねぇ」 「自分で出しといて?」 凪が顔を上げる。 相沢は少し笑った。 「機嫌悪い日に限って、変にいいメロ出すよな」 「うるせぇ」 凪はヘッドホンを耳へ当てた。 会話を終わらせるつもりだったが、相沢は気にしない。 「昨日なんかあった?」 「ねぇよ」 「玲士さんとなんかあった?」 凪の肩がわずかに止まる。 相沢がすぐに笑った。 「当たりか」 「うるせぇ」 入口のドアがまた開いた。 落ち着いた足音が近づいてくる。 凪は顔を上げなかった。 見なくても分かった。 月城玲士だった。 相沢が小さく言う。 「うわ」 「黙れ」 奥から高澤廉も資料を抱えて出てきた。 「朝からうるさい」 月城は三人の近くまで来る。 「おはよう」 「おはよーございます」 相沢がすぐ返す。 「おはようございます」 高澤も続いた。 凪はモニターを見たまま、マウスを少し動かした。 「……うっす」 「雑だね」 「うるせぇ」 月城は何も言わず、凪の横へ立った。 スーツの気配が近い。 凪は画面だけを見る。 「進んでるかい」 「見りゃ分かるだろ」 「止まってるね」 「見んな」 相沢がとうとう吹き出した。 「何これ」 月城は机へ手をつかず、少しだけ身を屈めてモニターを見る。 「港町なら」 低い声で言った。 「朝の静けさより、誰か起きる音を入れた方がいい」 凪の指が止まる。 昨日から引っかかっていた場所だった。 「……分かってる」 「ならやればいい」 「今やる」 「そう」 月城はそれ以上何も言わず、ラウンジのコーヒーメーカーへ向かった。 相沢がすぐに凪を見る。 「何それ」 「何が」 「避けてるくせに、アドバイスはちゃんと聞くやつ」 「避けてねぇ」 「避けてる」 「避けてない」 高澤が横を通りながら一言だけ落とした。 「分かりやすい」 凪は返事をせず、画面へ向き直った。 すでに指は動いている。 港町の朝へ、人の気配を足していく。 遠くでシャッターが上がる音。 店先へバケツが置かれる音。 誰かの咳払い。 人の少ない街の奥で、一日がゆっくり始まる。 再生する。 さっきまで止まっていた景色が、急に動き出した。 相沢が感心したように言う。 「うわ、いいじゃん」 凪は画面を見たまま答えた。 「……別に」 ラウンジの方から、月城の声が飛んでくる。 「その返し方、便利だね」 凪は振り向かなかった。 机の下では、また指先がBlue Hourのコードをなぞっていた。

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