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第23話 遠く見えただけ

夕方のアトラボ屋上には、春の風が流れていた。 最初に会った頃より空気はやわらかくなり、街の熱だけが下からゆっくり上がってくる。フェンス越しの空は高く、薄い雲が静かに流れていた。 凪隼人はいつものベンチに座り、ギターを膝へ乗せていた。 ケースは開いたままで、足元には空のペットボトルと使いかけのピックがある。 誰に聴かせるでもなく、Blue Hourのサビを弾く。 途中で止め、最初へ戻す。 今度は元のコードから少し外し、自分の癖へ寄せる。 それでもまとまらなかった。 「……何なんだよ」 テレビで月城玲士を見てから、妙に手が落ち着かない。 大きな仕事を動かし、誰かの音を見つけ、世界のあちこちへ出ていく男が、普段は何でもない顔で隣に座って飯の話をしている。 思い返すほど、その二つがうまく重ならなかった。 凪は少し強く弦を鳴らした。 乾いた音が風へ抜ける。 「機嫌が悪いね」 背後から声がした。 凪は振り向かずに舌打ちした。 「……足音うるせぇ」 「初めて言われた」 月城が隣まで来る。 スーツ姿のまま、ネクタイだけ少し緩めていた。片手には缶コーヒーを二本持っている。 一本を差し出され、凪は見ずに受け取った。 「何しに来た」 「ここにいる気がした」 「呼んでねぇ」 「そうだね」 「勝手に来るなよ」 「最近、当たりが強いね」 凪はプルタブを開けた。 甘いものでも炭酸でもなく、ブラックだった。 少し腹が立つ。 「忙しいんじゃなかったのかよ」 「忙しいよ」 「テレビで見た」 月城の手が少し止まり、それから笑った。 「感想は」 凪はすぐには答えず、ギターを低く鳴らした。 「……腹立つくらい出来る人」 「光栄だね」 「褒めてねぇ」 「君なりには褒めてる」 凪は月城を見た。 屋上にいる月城は、テレビの中にいた男と同じ顔をしているはずなのに、やはり少し違って見える。 「何だよ」 「何が」 「何で普通なんだよ」 月城は少し黙った。 風が二人の間を抜ける。 「普通じゃ困るかい」 「そういう話じゃねぇ」 「なら、どういう話かな」 凪は答えられなかった。 月城は遠い場所にいる人間だと思った。 それなのに、こうして何でもない顔で隣に座っている。 「……知らねぇ」 月城は缶コーヒーをベンチへ置き、凪のギターを見た。 「その曲」 「違う」 「まだ何も言ってない」 「Blue Hourじゃねぇ」 月城は声を立てずに笑った。 「随分、弾き込んだ音だ」 「うるせぇ」 しばらく、街の音だけが遠くにあった。 やがて月城が言う。 「凪」 「なんだよ」 「弾いてくれないか」 凪の指が止まった。 「何を」 月城はフェンスの向こうへ目を向けた。 「Blue Hour」 凪はすぐには返事をしなかった。 植え込みの葉が風に触れ、細い音を立てる。 テレビの中では、月城は誰かの音を選び、仕事を動かしていた。 今は、その男が凪へ一曲を頼んでいる。 「……自分で弾けよ」 「ギターは君の方が上手い」 「ずる」 「知ってる」 凪は深く息を吐き、ギターを構えた。 昔のコードへ指を置く。 あの夜、何度も聴いた進行だった。 そのままにはせず、少しだけ今の自分の音へ寄せる。 最初のコードを鳴らし、続けてもう一つ置く。 月城は目を閉じた。 サビへ入る少し前で、低い声が重なる。 昔の録音より深くなった声だった。 若い頃にあった尖りは薄れ、その代わりに長く使ってきた時間が残っている。 凪は顔を上げず、その声へ合わせて弾いた。 何度も聴いたはずの旋律なのに、今ここで鳴っているものはまるで違う。 月城が歌い終える。 最後のコードだけが、少し長く残った。 月城はゆっくり息を吐く。 「……ありがとう」 凪はギターを膝へ戻した。 「反則だろ」 「何が」 「昔の曲、今の声で歌うの」 月城が少し笑った。 「君が今の音で弾いたからだよ」 凪は缶コーヒーへ手を伸ばした。 口へ運ぶと、もう少しぬるくなっている。 「凪」 月城の声が、さっきより少し遅れて届いた。 「私、遠く見えたかい」 凪は前を向いたまま答える。 「……あんたが遠かったんじゃねぇ」 「うん」 「俺が、勝手に遠く見ただけだ」 月城は何も言わなかった。 凪もそれ以上続けない。 しばらく風の音だけを聞いたあと、もう一度ギターを構えた。 「次、何歌う」 隣で月城が笑った。 「君の曲がいい」 凪は一度だけ月城を見て、それから弦へ指を置いた。 今度はBlue Hourではないコードを鳴らす。 月城は何も言わず、その続きを待っていた。

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