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第24話 近い音

ロンドンの夜は、始まる前がいちばん静かだった。 会場裏の通路には黒い壁が続き、低く交わされるスタッフの声と、遠くで鳴るサウンドチェックの残響が薄く届いている。 月城玲士は、関係者用ラウンジのカウンターに立っていた。 今回の欧州公演では、VERTEX MUSIC GROUPが現地興行と配信の一部を担っている。月城自身もスポンサー側の責任者として入り、開演前まで回線や進行、現地スタッフとの最終確認を続けていた。 照明に問題はない。 配信回線も安定している。 客入れも予定通り進んでいた。 興行として確認すべきものは、ほとんど確認し終えている。 それでも、月城は手元のコーヒーへなかなか口をつけなかった。 少し離れたリハーサルルームの扉が、半分だけ開いている。 そこから笑い声が漏れてきた。 桐島智也の声だった。 そのすぐあとに、凪隼人が笑う。 さらに奥では相沢涼の短い声と、紫月颯の低い声が重なっていた。 「凪、そこ半拍遅い。桐島の声に寄りすぎ」 「寄ってねぇよ」 「寄ってる。お前が気持ちよくなってどうすんだ」 「うるせぇな」 ベースの低い音が一度だけ鳴る。 智也が笑った。 「俺は助かってるけど」 「桐島が助かるかどうかの話じゃねぇ」 紫月の声は、東京にいる時と何も変わらない。 場所がロンドンへ変わっても、音を確認する時の言い方まで同じだった。 月城はようやくコーヒーを口へ運んだ。 少し冷めている。 リハーサルルームの扉が開き、智也が先に出てきた。 黒のジャケット姿で、片手にはまだマイクを持っている。 その後ろから凪も出てきた。 ギターを肩へ掛けたまま、二人で何か話している。 「だから、その発音だと意味変わるって」 「嘘だろ?」 「ほんと。今のだと別の単語」 「先に言えよ!」 「三回目で言った」 「性格悪いな」 二人は並んだまま通路へ出てくる。 肩が触れそうな距離だったが、どちらも気にしていない。 近づこうとしてできた距離ではなかった。 月城はカップへ視線を落とし、残っていたコーヒーをもう一口飲んだ。 奥から紫月の声が飛ぶ。 「本番で遊びすぎんなよ」 「分かってる」 「分かってない顔してる」 凪は振り返らず、片手だけ上げた。 その横で智也が月城に気づく。 「月城さん」 凪もようやくこちらを見た。 「あ、おじさんいたんだ」 「いるよ。君たちのために働いた人間だからね」 「言い方が重いって」 凪はいつもと変わらない。 智也がまた笑い、月城も少し遅れて笑った。 「リハはどうだった?」 「いい感じです」 智也が答える。 「凪が合わせるの上手くて助かる」 凪はすぐに首を振った。 「そっちが揺れないだけだろ」 「それ褒めてる?」 「半分」 智也が笑う。 凪も何でもない顔をしている。 月城は二人を見ながら、もう一度カップへ指を掛けた。 屋上で自分の声へ合わせてくれた時も、リハーサルルームで未完成の音を聴かせてくれた時も、凪は同じように相手の音へ入ってきた。 自分だけが知っている近さだと思っていたわけではない。 それでも、こうして別の誰かの隣にいる凪を見ると、胸の奥に少しだけ引っかかるものが残った。 「おじさん」 不意に凪が呼んだ。 「何かな」 「終わったら腹減る」 月城は一度瞬きをしてから笑った。 「君は本番前でもそれなんだね」 「大事だろ」 「正論だ」 智也が肩を揺らす。 「この人、昔からずっとこうなんです」 月城は頷いた。 「なら任せなさい」 「何を」 「終演後、この街でいちばんうまい店へ連れていく」 凪の目が少し上がる。 「ほんとか」 「そのために働いている」 「仕事の理由おかしくない?」 「今夜はこれでいい」 智也が笑いながら月城を見る。 「月城さん、機嫌いいですね」 「そう見えるかい」 「かなり」 通路の向こうでスタッフが走り始めた。 それまで長かった声が短くなり、開演が近づくにつれて、会場裏の空気も少しずつ硬くなっていく。 客席のざわめきが、壁越しにも聞こえ始めていた。 智也はイヤモニへ触れ、凪はギターの位置を直す。 さっきまで笑っていた二人の手が、自然に本番へ向かう。 通路の奥から声が飛んだ。 「Five minutes!」 紫月がステージ袖から戻ってきた。 肩にはベースを掛けている。 「変えるなとは言わねぇ。崩す場所だけ間違えんな」 「分かってる」 「お前の分かってるは信用してねぇ」 「うるせぇ」 凪がストラップを引き直す。 紫月は智也を見る。 「桐島」 「はい」 「二曲目の入り、半拍待て。凪が寄る」 「分かりました」 「凪」 「何だよ」 「寄るな」 「だから寄ってねぇって」 紫月はもう言い返さなかった。 ベースの弦を指で一度確かめる。 月城は少し離れた場所から、その三人を見ていた。 東京では、それぞれ別の場所にいることの方が多い。 それが今は、同じステージへ向かっている。 智也が月城を振り返った。 「行ってきます」 「行ってらっしゃい」 凪は言葉の代わりに軽く手を上げる。 紫月もそのままステージ袖へ向かった。 三人の姿が黒い壁の向こうへ消える。 少しして、会場の照明が落ちた。 壁を越えて歓声が押し寄せる。 月城は手の中に残っていた冷たいコーヒーをカウンターへ置いた。 胸の奥には、まだ少しだけざわつきが残っている。 それでも今は、そのままでいいと思えた。 ステージの向こうで、最初の音が鳴った。

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