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第25話 名前はBlue Hourで良かった
ロンドンの夜は、熱を通り過ぎてから、ようやく深くなっていった。
現地の出演者も、日本から来た数組も、それぞれの音を残している。
Fluctuationが終わったあとには、静かな波紋のような拍手が会場へ残った。
桐島智也の声は遠くまで届き、榊悠司の音は、その声が消えたあとの余白まで支えていた。
続くFluctuation Crossでは、空気が一気に変わった。
凪隼人のギターが火を入れ、紫月颯のベースが低い場所を支える。相沢涼の声が会場の芯を通り、赤と青の照明がその上を走った。
客席では次々に人が立ち上がり、腕が上がる。
押し返すような歓声の中で、夜全体が前へ傾いていく。
ここで終わっても、成立していたはずだった。
ステージの光が落ちる。
歓声がゆっくり静まり、客席には人の呼吸だけが残った。
暗闇の中へ、一本だけ青い光が降りる。
マイクスタンドの前に、智也が立っていた。
ジャケットは脱ぎ、白いシャツの袖をまくっている。
何も言わず、客席を見る。
そのまま少し待つと、暗がりからアコースティックギターの音が入った。
相沢だった。
さっきまで会場の中央で歌っていた男が、黒いTシャツのままギターを抱え、智也の横へ椅子を寄せる。
客席のあちこちから、小さく息を吸う音がした。
相沢は椅子へ座り、一度だけ智也を見る。
智也も視線を返した。
それだけで始まった。
静かなコードが鳴る。
二つ目の音が置かれる頃には、客席のざわめきも消えていた。
曲名の表示はない。
紹介もない。
智也が歌い出した。
遠くまで届く声だった。
けれど、今夜は前へ押していない。
誰かの部屋へ入る時のように、声の方から少しだけ距離を空けてくる。
相沢のギターも、歌を引っ張らなかった。
前へ出すぎず、沈ませすぎず、智也の声が置かれる場所だけを作っている。
二番へ入ると、相沢の低い声が重なった。
上手く聴かせるための声ではない。
智也の言葉の下へ、別の温度を置くような声だった。
二人の声質は違う。
それでも、重なった時にどちらかが消えることはなかった。
ステージ後方の暗がりでは、凪がギターを肩へ掛けたまま立っていた。
今はまだ出番ではない。
その少し横に、月城玲士がいた。
腕を組み、ステージを見ている。
売れる声も、消えていく才能も、これまで何人も見てきた。
だからこそ、目の前にあるものを、いつものように整理できなかった。
相沢には音楽以外の仕事がある。
高澤廉は進行と数字を回し、榊悠司は研究の側から音を見る。凪もまた、ステージだけで生きている人間ではない。
それぞれ別の生活を持っている。
それなのに、同じ場所へ立った時には、その時間まで音の中へ持ち込んでくる。
月城は小さく息を吐いた。
「反則だろ……」
隣に榊が立った。
月城はステージから視線を外さない。
「やっと分かりましたか」
「何がかな」
「この人たちが、予定表どおりに育たないことです」
月城が少し笑う。
「君が言うと、ずいぶん含みがあるね」
「事実です」
榊はステージを見たまま続けた。
「管理するほど、手から抜けていく。放っておくほど、勝手に形になる」
「厄介だね」
「面白いでしょう」
月城は少しだけ間を置いた。
「かなりね」
ステージ上で、相沢が視線だけを後ろへ向けた。
凪が動く。
暗がりから紫月のベースが低く入った。
派手な音ではない。
けれど、その一音で歌とギターの下に足場ができる。
相沢は座ったまま凪を見る。
凪はその隣へ立ち、ギターへ手を置いた。
イントロにはなかったフレーズを細く入れる。
少しだけ泣くような音だった。
智也の声が、その上へ重なる。
完成していたはずの曲に、今この場でしか残らない音が混ざった。
月城はしばらく目を閉じた。
この公演を通すために、契約も配信も現地の調整も進めてきた。
それでも、今ステージにあるものは、もうそのどれとも別の場所にあった。
榊が静かに言う。
「今夜のこと、数字にしないでください」
月城は目を開いた。
「仕事の相手に、ずいぶんな注文だ」
「あなたなら、別で回収できる」
月城が笑う。
「買われているね」
「見てますから」
サビの最後で、智也が一歩下がった。
相沢も声を止める。
残った凪のギターが、言葉のなくなった場所をそのまま引き受けた。
青い照明が薄く揺れる。
客席で上がりかけたスマートフォンが、いくつか下がった。
誰も声を出さない。
最後の一音が高い天井へ伸び、やがて消えた。
しばらくして、客席のどこかから拍手が始まった。
すぐには大きくならない。
隣へ渡すように、ゆっくり広がっていく。
ステージ袖で、高澤がタブレットを閉じた。
「終演後、車は三十分後に出ます」
月城はまだ客席を見ている。
「……相変わらず早いね」
「実務なので」
ステージでは、智也が静かに頭を下げた。
相沢もギターを抱えたまま立ち上がる。
凪は少し遅れて顔を上げ、その後ろで紫月がベースを持ったまま客席を見ていた。
青い光がゆっくり落ちていく。
拍手はまだ止まらなかった。
月城もその中で、しばらく動かなかった。
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