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第27話 先に帰る人

ロンドンの朝は、まだ薄暗かった。 ホテル最上階のラウンジでは、大きな窓の向こうに曇った街並みが広がり、赤い二階建てバスが少しずつ動き始めている。 月城玲士はノートPCを閉じたところだった。 報告書は送った。精算も済ませ、次の打ち合わせの日程も押さえてある。 今回の滞在で残っていた仕事は、ほとんど片づいていた。 テーブルにはホテルの朝食がある。 トーストとスクランブルエッグ、果物。どれもきれいに整えられているが、手はあまり進んでいない。 月城がコーヒーを飲んだところで、背後から声がした。 「いた」 振り返ると、凪隼人が紙袋を片手に立っていた。 パーカー姿で、髪にはまだ少し寝癖が残っている。 「探したのかい」 「朝飯」 月城が目の前の皿を見る。 「こちらにも一応あるけどね」 凪は向かいの椅子へ座り、紙袋からまだ温かいサンドイッチを取り出した。 「ホテルのやつ、上品すぎる」 「量が少ないと言いたいのかな」 「伝わってんじゃん」 月城は差し出された包みを受け取った。 「ありがとう」 「珍しく素直」 「君に言われると複雑だね」 二人で食べ始める。 窓の向こうでは、朝の街が少しずつ動いていた。 凪がサンドイッチを食べながら聞く。 「今日、何時?」 「空港へは昼前かな」 「早」 「仕事は終わったからね」 「もう一泊して遊べば?」 月城は水へ手を伸ばした。 「君たちが楽しめばいい」 「他人事みてぇに言うなよ」 「他人事ではないよ」 「じゃあ残れ」 月城の手が止まった。 凪は気にせず、包みを折りたたんでいる。 「ロンドン来たの、おじさんのおかげみたいなとこあるし」 「みたいな、ではなく、かなりそうだと思うけどね」 「うるせぇ」 「感謝が雑だ」 凪が笑った。 昨夜、桐島智也と並んで歩いていた時と同じ笑い方だった。 月城は少しだけ視線を窓へ移した。 「凪」 「ん?」 「桐島智也とは、久しぶりだったろう」 「まあ」 「なら、ゆっくり楽しんでくればいい」 凪が首を傾げる。 「何それ」 「そのままの意味だよ」 「おじさんも来れば?」 「私は空気を読む大人なんだ」 「初耳」 「失礼だね」 凪はテーブルへ肘をついた。 「なんか変」 「何が」 「いつもより、いい人ぶってる」 月城は小さく笑った。 「ぶってはいないよ」 「怪しいな」 「君は勘が鋭いのに、肝心なところで雑だね」 「分かるように言え」 「言わない」 凪は眉を寄せた。 月城はその顔を見て、コーヒーへ手を伸ばす。 昨夜のステージでは、遠くまで声と音を届ける側にいた男が、今は向かいでサンドイッチを食べている。 「帰ったら忙しい?」 凪が聞く。 「山ほどある」 「じゃあ体力つけろよ」 「まだ言うんだね」 「週三でジム」 「増えてるね」 「逃げんな」 月城が笑った。 「君、私への指示だけ強いな」 「言う人いねぇだろ」 「否定できない」 凪も笑う。 食べ終えた包みを紙袋へ戻し、月城は時計を確認した。 「そろそろ行くよ」 「ほんとに帰るんだな」 「仕事は終わったからね」 凪は何も言わず、残っていた飲み物へ口をつけた。 ロビーでは、チェックアウトを終えたスタッフが荷物を運んでいた。 車寄せには空港へ向かう手配車が待っている。 凪はそのままエントランスまでついてきた。 「ほんとに帰るんだな」 月城が振り返る。 「二回目だよ、それ」 「つまんねぇ」 「それも二回目だね」 月城は足を止めた。 少しだけ凪を見る。 「凪」 「ん」 「君は、せっかく近くにいる人との時間を大事にしなさい」 凪が眉を寄せた。 「急に説教?」 「助言だよ」 「誰のこと」 「そこまで言うほど野暮じゃない」 凪は少し考えたが、すぐに首を振った。 「分かんねぇ」 「だろうね」 月城は笑った。 運転手が後部座席のドアを開ける。 「東京で会おう」 「飯な」 「まずそこなんだ」 「大事だろ」 「認めるよ」 月城が車へ乗り込む。 窓が少し下がった。 「それと」 「何」 「桐島智也によろしく」 凪は怪訝そうに月城を見る。 「自分で言えよ」 「今は君経由でいい」 車がゆっくり動き出す。 凪はその場で片手を上げた。 月城も軽く返す。 車寄せを離れると、二人の間へ歩道と信号、人の流れが少しずつ入ってきた。 月城は窓の外を見たまま、しばらく口元の笑いを消さなかった。

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