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第28話 触れない距離

ロンドンから戻って二週間が過ぎていた。 国内ツアーは予定どおり始まり、移動と本番、その合間の打ち合わせが続いている。 月城玲士とは何度か顔を合わせた。 車寄せで数分。会場裏ですれ違いざまに一言。深夜には短い連絡も届いた。 それでも、二人きりになるのは今夜が初めてだった。 高層階の窓の向こうには、東京の灯りが広がっている。 凪隼人は玄関で足を止めた。 「入らないのかい」 奥から月城の声がする。 「……入ってるだろ」 片足だけ玄関へ上げた状態で答えると、月城が小さく笑った。 「半分だね」 凪は仕方なく靴を脱いだ。 部屋は広かった。 黒と木目で揃えた家具に、物の少ない棚。壁には絵が一枚掛かっている。生活感がないわけではないが、どこに何を置くかまで決まっているような部屋だった。 凪はギターケースを背負ったまま、中を見回す。 「……ホテルみてぇ」 「褒め言葉かな」 「落ち着かねぇ」 「それは残念」 月城はジャケットを脱いでソファの背へ掛け、ネクタイも外した。 凪は一度そちらを見てから、すぐに窓の方へ視線を移す。 「何飲む」 「水」 「素直だね」 「うるせぇ」 キッチンから戻った月城が、冷えたグラスを渡す。 凪はそれを受け取り、示されたソファの端へ座った。 「落ちそうだよ」 「落ちねぇ」 「もっと真ん中へどうぞ」 「ここでいい」 月城は向かいの椅子へ行くかと思った。 けれど、そのまま同じソファの反対側へ腰を下ろす。 間にはまだ十分な距離があった。 凪は水を一口飲み、横を見た。 「何でこっちなんだよ」 「私の家だから」 「理屈が強いな」 「ありがとう」 凪は残っていた水を飲んだ。 部屋は静かだった。 冷蔵庫の低い音と、空調が流れる気配だけがある。 凪の部屋とは違う。 音が少ないぶん、隣で月城が脚を組み直す音や、シャツが擦れる気配まで妙によく聞こえた。 「……無理」 月城が見る。 「何が」 「静かすぎる」 「じゃあ、何か流そうか」 「いらねぇ」 「難しいね、君」 「知らねぇよ」 凪は立ち上がった。 そのまま窓際まで歩き、眼下の街を見る。 「高ぇな」 「二十七階」 「住む場所じゃねぇ」 「今、住んでいるよ」 凪は鼻で笑った。 しばらく夜景を眺めてから、振り返らずに言う。 「……こういうとこ、似合いすぎなんだよ」 少しして、月城の声が返った。 「褒めてる?」 「違う」 「残念」 思ったより近くから聞こえた。 凪が振り向くと、月城が少し後ろに立っていた。 さっきまであったソファ一つ分の距離はない。 それでも、月城は触れてこない。 凪は一歩だけ横へずれた。 「……そういうとこだぞ」 「どういうところかな」 「分かってやってるだろ」 月城は少し笑った。 否定はしなかった。 凪は壁際のスピーカーへ目を向ける。 「音、出ねぇの」 「出るよ」 「出せ」 「命令口調だね」 「早くしろ」 月城がリモコンを取り、部屋に古いジャズを流した。 低いピアノが広がる。 凪はようやく肩の力を抜いた。 「助かった」 「何から」 「知らねぇ」 月城はグラスを持ち上げる。 「君、面白いね」 「うるせぇ」 「さっきからそればかりだ」 凪はギターケースへ向かった。 一本取り出し、ソファへ戻る。 手にギターがあるだけで、さっきより座る位置に迷わなかった。 何でもないコードを鳴らす。 音はきれいに抜け、余計な反射も少ない。 凪はもう一度弦へ触れた。 「……いい部屋だな」 月城が目を細める。 「今、初めて褒めた」 「ギターに合う」 「そういうことにしておこう」 凪は数音続けて鳴らした。 弾いていれば落ち着く。 ただ、今夜は隣にいる人間の気配まで音の中へ入ってくる。 「なあ」 「うん?」 「こっち見んな」 「見ていないよ」 「気配がうるせぇ」 月城がとうとう声を立てて笑った。 凪は少し強く弦を鳴らす。 鋭い音が部屋を抜け、そのまま次のコードへ指を移すと、今度は自然に柔らかい旋律へ変わった。 月城は黙って聴いている。 「今の、君だね」 凪が顔を上げる。 「何が」 「さっきの音と、今の音」 凪は返事をしなかった。 もう一度、同じところを弾く。 今度は最初から少しだけ力を抜いた。 窓の向こうの夜景は遠いままだった。 月城は隣で何も言わず、その音が終わるまで座っていた。

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