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第29話 帰ってからうるさい
深夜の凪の部屋には、いつもの景色があった。
キッチンには洗った食器が伏せられ、テーブルの端には譜面が重ねて置かれている。壁際には手入れの済んだギターが並び、ソファにも余計なものはない。
戻れば落ち着くはずの部屋だった。
それなのに、今夜は妙に狭く感じた。
凪隼人はドアを閉めると、玄関で髪を掻いた。
「……何なんだよ」
靴を脱ぎ、冷蔵庫から水を取る。一口飲んだところで、さっきまで月城玲士の部屋で飲んでいた水を思い出した。
「いや、ただの水だろ」
自分で言って、余計に腹が立つ。
ソファへ身体を沈めても、いつものようには落ち着かなかった。冷蔵庫の低い作動音も、空調の気配も、服がソファへ擦れる音も、今夜だけはやけに近く聞こえる。
それ以上に残っているのは、月城の部屋だった。
ジャケットを脱ぐ手。外されたネクタイ。窓際で振り向いた時の距離。
凪は片手で顔を覆った。
「……きも」
スマートフォンが鳴った。
相沢涼だった。
一度目は無視した。二度目もそのままにしたが、三度目で諦めて通話を取る。
「何」
『生きてる?』
「うるせぇ」
『死んでる声だな』
「用件だけ言え」
『玲士さんに送ってもらった?』
「送ってねぇ。帰った」
『へえ』
凪は眉を寄せた。
「何だよ」
『いや。送ってもらってないんだ』
「……だから何」
『進歩したなと思って』
凪はそのまま通話を切った。
数秒もしないうちに、今度はメッセージが届く。
《顔赤い?》
「うぜぇ」
スマートフォンを伏せ、壁際のギターへ手を伸ばした。
膝へ乗せると、それだけで少し呼吸が整う。
アンプにはつながず、強めのコードを鳴らした。もう一度、少し違う位置へ指を置いて鳴らしてみる。
どちらもしっくりこない。
次に指が選んだのは、月城の部屋で弾いたものに近い、やわらかい進行だった。
凪は途中で手を止めた。
「……何でだよ」
今度は少し強く弾こうとしたが、その音も長くは続かない。結局、指はまた丸い方へ戻っていく。
凪はしばらく弦を見てから、ギターをソファの隣へ置いた。
スマートフォンがもう一度震えた。
表示された名前は月城玲士だった。
すぐに開く。
《忘れ物》
写真が一枚添えられていた。
月城のソファに、凪が使っていたピックが落ちている。
《預かっている》
凪は考えるより先に返信した。
《捨てとけ》
既読がつき、少しして返事が来る。
《また来る理由ができたね》
凪はスマートフォンをクッションへ放った。
「……無理」
そのまま数秒だけ天井を見たあと、結局また手を伸ばす。
返信欄を開き、何か打とうとしてやめる。閉じて、また開く。
最後に送ったのは、
《うるせぇ》
それだけだった。
既読は、ほとんど間を置かずについた。
凪は画面を見たまましばらく動かなかった。
やがてスマートフォンを伏せ、隣に置いたギターへもう一度手を伸ばした。
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