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第32話 Blue Hour
海沿いの大型アリーナは、開演前から熱を抱えていた。
入場ゲートには列が伸び、物販袋を下げた人が行き交っている。客席へ向かう通路のあちこちでスマートフォンの画面が光り、まだ始まっていないステージの向こうから歓声の気配だけが届いていた。
月城玲士は、客席中央に設けられた関係者席へ案内された。
今回の地方公演には、協賛元の視察という名目で同行している。
それで通る予定だった。
けれど東京駅からここまで来て、もう自分でも分かっていた。
凪隼人を見に来た。
客電が落ちる。
歓声と同時にSEが走り、巨大スクリーンの映像が割れた。その中央にRidgelineの文字が浮かぶ。
一曲目から相沢涼が前へ出た。
照明と映像が一気に動き、客席の温度が跳ね上がる。二曲目、三曲目と進むにつれ、ステージだけではなく、会場全体が一つの流れへ組み込まれていった。
月城は腕を組んだまま、それを見ていた。
音がいいだけではない。
映像も照明も、客席へ人を入れるところから終演後の動線まで、同じ公演の中で噛み合っている。相沢が前へ押し、高澤廉が全体を成立させ、その中央で凪が音の芯を作る。
右手では紫月颯のベースが低く会場を支えていた。
その隣で、凪がギターを鳴らしている。
以前と同じ鋭さは残っている。
けれど今の音は、刺して終わらない。
相沢の声が前へ出る場所を作り、紫月の低音と重なりながら、ステージ全体を持ち上げていた。
月城は少しだけ笑った。
「育ったね」
四曲目が終わり、照明が落ちる。
客席のざわめきと、暗がりを走るスタッフの気配が残った。
やがて一本の白い光が、ステージ中央へ落ちる。
そこに立っていたのは凪だった。
歓声が大きくなる。
凪は肩からギターを外し、そのまま相沢へ渡した。相沢は何も言わずに受け取り、ストラップを掛けると、中央から一歩後ろへ下がった。
客席がざわついた。
凪がマイクへ手を掛ける。
「今日、歌いたい曲がある」
歓声が返る。
凪は少し眉を寄せた。
「勝手に。俺が」
さらに声が上がった。
月城は動かなかった。
相沢が凪のギターでイントロを鳴らす。
そのコードを、月城は知っていた。
Blue Hour。
一瞬、周囲の音が遠くなった。
昔、自分が歌っていた曲だった。
凪と屋上で一度だけ鳴らした。そのあと、誰かに渡す話など一度もしていない。
それが今、数千人の前で鳴っている。
凪が歌い出した。
少し掠れた低い声だった。
きれいに整えようとはしていない。それでも真っ直ぐ前へ届いていく。
月城が昔歌っていたものとは違う。
似せてもいない。
凪の呼吸で、凪の音の中を通っている。
一番が終わる頃には、客席から大きな声が消えていた。
二番へ入り、サビまで進む。
月城は椅子から立てないまま、ステージを見ていた。
過去の曲を聴いている感じがしなかった。
凪が今ここで歌っている。
それだけで、同じ曲が別の場所へ進んでいた。
凪は遠くへ視線を置いたまま歌っている。
客席中央を探すこともない。
それでも月城には、まっすぐ届いた。
最後の音が消える。
客席はすぐには動かなかった。
少し遅れて拍手が起こり、次の瞬間には歓声がアリーナを揺らした。
月城もようやく立ち上がった。
周囲より少し遅れて、拍手を送る。
ステージでは、前へ戻った相沢が凪の肩を軽く叩いた。凪は何でもない顔でギターを受け取り、紫月のベースが次の曲を呼び込む。
そのままライブは続いていった。
終演後、関係者通路には撤収の音が流れ始めていた。
月城が楽屋側へ向かっていると、資料を抱えた高澤がやってくる。
「どうでした」
月城はすぐには答えなかった。
遠くの楽屋口から、スタッフの声と笑い声が聞こえている。
「……ひどいね」
「何がです」
「スポンサーとして来たのに、完全に私情で帰ることになった」
高澤が少し笑った。
「今さらです」
月城も笑い、楽屋口の方を見る。
「昔は、自分の曲だった」
「はい」
「さっき、奪われた」
高澤は少しだけ肩をすくめた。
「良かったじゃないですか」
月城はしばらく何も言わなかった。
それから、まだ歓声の残る会場の方へ目をやる。
「最悪だよ」
声だけは、少し笑っていた。
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