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第33話 酔うほどでもなく

最上階のラウンジは、街の音から少し離れていた。 扉が閉まると、廊下の気配まで遠くなる。低い照明の下で磨かれた床が静かに光り、窓の向こうには港の灯りが広がっていた。橋をなぞる白い光と、ゆっくり回る観覧車。水面ではネオンが細かく崩れている。 凪隼人は入口で一度足を止め、店の中を見回した。 「……落ち着かねぇ」 先を歩いていた月城玲士が振り返る。 「似合ってるよ」 「どこが」 「そうやって不機嫌そうな顔で、高い場所にいるところ」 「最悪の褒め方だな」 窓際のテーブルへ案内されると、凪は椅子を引く音にまで少し反応した。 月城は向かいへ座り、ジャケットを脱いで背もたれへ掛ける。ネクタイも少し緩めた。 「何を飲む?」 凪はメニューを見てから答えた。 「……酒」 月城が目を上げる。 「珍しいね」 「今日はいい日だから」 言ったあと、凪は窓の方へ視線を向けた。 月城は何も言わず、店員を呼ぶ。 「弱いの?」 「うるせぇ」 「じゃあ、飲みやすいものにしよう」 月城はハイボール、凪にはレモンサワーを頼んだ。 グラスが届くと、凪はすぐに一口飲む。 「……うま」 「だろう」 凪が顔を上げた。 「俺のこと、何でも分かってるみたいな顔すんな」 「だいたい分かる」 「きも」 「今さらだね」 凪は笑いかけて、また窓の外を見た。 月城は自分のグラスへ手を伸ばす。 「今日は驚いた」 凪の指が止まった。 「何が」 「Blue Hour」 「……勝手に歌った」 「知ってる」 凪は少し間を置いた。 「嫌だったか」 月城はすぐには答えなかった。 さっきまでステージにいた凪を思い出す。 昔、自分が歌っていた曲だった。 それが今夜は、まったく別の呼吸で鳴っていた。 「嬉しかったよ」 凪はグラスへ目を落とした。 「……そっか」 料理が運ばれてきた。 温かいパンと前菜、香りの強すぎない肉料理。凪は最初こそ少し様子を見ていたが、一口食べると、そのあとは黙って箸を進めた。 月城が笑う。 「ちゃんと食べるね」 「うるせぇ」 「安心した」 「何が」 「ライブ後に倒れられると困る」 凪は何か言い返しかけて、結局レモンサワーを飲んだ。 食事が進むにつれ、返事の角が少しずつ取れていった。 グラスも一杯目のままなのに、凪は椅子へ深く座るようになり、最初ほど店の静けさを気にしなくなっている。 「……あんたさ」 「うん」 「昔から見てたって、本当なんだよな」 「本当だよ」 「七歳とか、九歳とか」 「覚えてる」 「気持ちわりぃな」 「光栄だ」 凪が声を出して笑った。 そのままグラスを置き、少しだけ下を見る。 「でも」 月城は待った。 「今日、来てて良かった」 月城の手が止まる。 「スポンサーとして?」 「ちげぇよ」 返事は早かった。 言った凪自身が少し黙る。 「……違う」 月城はそれ以上聞かなかった。 代わりに、水のグラスを凪の前へ寄せる。 「少し飲みなさい」 「酔ってねぇ」 「酔ってる」 「酔って……ねぇ」 最後だけ少し遅れた。 月城は笑いを堪え、凪が水を飲むのを待った。 「眠ぃ」 「部屋まで送ろうか」 「いらねぇ」 「そう」 凪はグラスを置いた。 「おじさんの部屋行く」 月城はしばらく何も言わなかった。 凪はただ眠そうにこちらを見ている。 「……それは、かなり危ない誘い方だね」 「は?」 「何でもない」 「行くだけだろ」 「そうだね」 月城は立ち上がった。 会計を済ませ、二人でエレベーターへ向かう。 厚い絨毯が足音を吸い、凪の歩幅だけが少しゆっくりになっていた。月城は半歩後ろを歩き、距離だけ合わせる。 エレベーターへ入ると、凪は壁へ背を預けた。 数字が静かに変わっていく。 「……おじさん」 「うん」 「今日の俺、よかった?」 月城は凪を見る。 「良かったよ」 「どっちが」 「全部」 凪は小さく頷いた。 「そっか」 扉が開いた。 月城の部屋は角部屋だった。 窓の向こうには、さっきより近く港の灯りが見える。 凪は中へ入り、数歩進んだところで止まった。 「……すげぇ」 「普通だよ」 「普通の基準、狂ってる」 そのままソファへ向かおうとする凪へ、月城が声を掛ける。 「その前に、シャワー浴びてきたら」 「さっき浴びた」 「酒と店の匂いがついたまま寝る気かい」 凪は露骨に嫌そうな顔をした。 「タオルは出してある」 「……ホテルってめんどくせぇな」 そう言いながらも、凪はバスルームへ向かった。 扉が閉まり、しばらくしてシャワーの音が始まる。 月城は水を用意し、部屋の照明を少し落とした。ネクタイを外して椅子の背へ掛けても、気持ちはほとんど静まらない。 やがてシャワーが止まった。 扉が開き、白いガウン姿の凪が出てくる。 まだ乾ききっていない髪を片手で拭きながら、月城を見る。 月城は一度だけ視線を外した。 「……何」 「いや」 「何だよ」 「ちゃんと入れたんだね」 「子どもじゃねぇ」 凪は差し出された水を受け取り、ベッドの端へ座った。 素直に飲んでいる。 「……おじさん」 「うん」 「何もしねぇの」 月城は少し黙った。 凪は月城を見ていたが、返事まで少し時間がかかった。 「した方がいい?」 凪は少し考えた。 「知らねぇ」 月城は水のボトルをテーブルへ置いた。 「私は知ってる」 「何を」 「今日はしない方がいい」 「何で」 「明日の君に怒られたくないからね」 凪はしばらく月城を見た。 「……性格わりぃな」 「それは今さらだろう」 凪はそのまま布団へ潜り込み、横を向いた。 少しして、声だけが落ちる。 「……玲士」 月城の手が止まった。 「うん」 「電気、消せ」 「分かった」 照明を落とすと、部屋には窓の外の灯りだけが残った。 凪の呼吸は、思ったより早くゆっくりになっていく。 月城はベッドへは向かわず、窓際の椅子へ座った。 テーブルには、凪が半分残した水がある。 遠くでは観覧車の光がゆっくり回っていた。 月城はそこから動かず、部屋が静かになるまで窓の外を見ていた。

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