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第35話 残したい夜
昨夜のライブ映像は、朝になっても止まらなかった。
月城玲士は自宅のダイニングで、まだ手をつけていないコーヒーの前に座っていた。
テーブルのタブレットには、終演後に公開された短い公式クリップがいくつも並んでいる。
Blue Hour。
凪隼人がセンターへ立ち、歌った数分間だった。
本編映像ではない。短い切り出しには歓声も入り込み、ステージの青い光と凪の声がそのまま残っていた。
月城は一つ再生し、途中で止める。
別の動画を開く。
再生数は朝のうちから伸び続け、コメント欄には似た言葉が増えていた。
《音源化してほしい》
《配信してほしい》
《MVが見たい》
《昨夜のあれは一度きりで終わらせないでほしい》
月城はスクロールする指を止めた。
SNSの反応も、海外から拾われた数字も、一晩の偶然では片づけにくいところまで来ている。
タブレットの画面を閉じても、昨夜の凪の声は残った。
月城はスマートフォンを手に取り、凪の名前を開く。
《話がある》
既読はすぐについた。
《朝からめんどくせぇ》
月城は笑った。
《Blue Hourの件だよ》
少しして、
《めんどくせぇ》
と返ってくる。
《昼、来なさい》
《会社?》
《そう》
《行きたくねぇ》
《来るよ》
《何で分かる》
《君は気になっている》
今度は返事が来なかった。
月城はスマートフォンをテーブルへ置き、ようやくコーヒーへ手を伸ばした。
*
昼前、VERTEX MUSIC GROUP本社の最上階。
エレベーターを降りた凪は、静かなフロアを見回した。
受付カウンターの奥から、一人の女性がこちらへ歩いてくる。濃紺のジャケットに細身のパンツ、手にはタブレットを持っていた。
「凪隼人さんですね」
「あ、はい」
「月城の秘書をしております、雨宮凛子です」
軽く頭を下げてから、雨宮は廊下の先を示した。
「お待ちしています。こちらへどうぞ」
「昼休みって聞いたけど」
「正確には、十二時十分から十二時五十分までを空けました」
凪が横を見る。
「細か」
雨宮は歩く速度を変えない。
「月城の予定は、細かくしないと空きませんので」
「大変そうだな」
「慣れています」
即答だった。
執務室の前まで来ると、雨宮が一度タブレットを見る。
「次の会議は十三時からです。十二時五十五分にはこちらを出てください」
扉の向こうへ向けた言葉だった。
月城の声が返る。
「分かっているよ」
雨宮はわずかに眉を動かした。
「昨日も同じことをおっしゃいました」
凪が笑う。
中から月城の声がした。
「凪、入って」
「はいはい」
雨宮が扉を開ける。
凪が中へ入ろうとすると、背後から静かな声が続いた。
「十二時五十五分です」
「俺に言ってる?」
「念のため」
凪はもう一度笑ってから、執務室へ入った。
「帰っていい?」
開口一番そう言うと、月城はデスクから顔を上げた。
「まだ来たばかりだろう」
「呼ばれたから来ただけ」
「なら、用件くらい聞いていきなさい」
凪は舌打ちしながらソファへ座った。
テーブルには資料が数枚置かれている。再生数の推移、SNSで拾われた投稿、海外からの反応、配信を求める声。
凪は一枚だけ手に取り、すぐ戻した。
「頭痛くなる」
「数字が嫌いだね」
「数字が俺を嫌ってる」
月城は向かいへ座った。
「結論から言うよ」
「うん」
「Blue Hourを出したい」
凪の目が止まった。
「……は?」
「音源化。できればMVも」
「何で」
月城は資料へ目を落とす。
「これだけ反応が出ている。一度きりで終わらせるには惜しい」
「誰が欲しがってんの」
「かなり広い範囲で」
「急にぼかしたな」
「世界と言ったら怒るだろう」
「でかく言うからだよ」
凪はソファへ少し沈んだ。
「……あれ、ノリで歌っただけだぞ」
「知ってる」
「ライブだから成立したやつだろ」
「その可能性もある」
「今さら録り直すの恥ずい」
「それも分かる」
「撮られんの嫌い」
「知ってる」
凪が顔を上げる。
「何でも知ってんな」
「努力している」
「きも」
月城は少し笑った。
それから、資料を閉じた。
「でも、これだけじゃない」
凪が黙る。
月城はタブレットも伏せた。
「私は、あの夜を一度きりで終わらせたくない」
窓から入る昼の光が、テーブルの端まで伸びていた。
凪はしばらく返さず、やがて小さく息を吐く。
「……ずるいな」
「よく言われる」
「最初に数字とか反応とか並べといて」
「全部本当だよ」
「最後にそれ言うのがずるい」
月城は否定しなかった。
凪は立ち上がり、窓際まで歩いた。
明るい東京の街をしばらく見下ろしてから言う。
「条件ある」
「聞こう」
「変な加工しねぇ」
「しない」
「歌、録り直してダサかったらやめる」
「いいよ」
「MVは、俺が嫌になったら止める」
「その時は止める」
凪はそこで振り返った。
「あと」
「うん」
「現場、お前も来い」
月城の手が止まる。
「私が?」
「言い出しっぺだろ」
「忙しいんだけどね」
「じゃあやめる」
「行くよ」
返事は早かった。
凪が少し笑う。
「決まりな」
「決まりだ」
月城は手帳を開いた。
会議、出張、海外との通話、決裁。空いている時間はほとんどない。
それでも予定の間へ、Blue Hourと書き込む。
その時、執務室の扉が二度鳴った。
「どうぞ」
雨宮が顔を覗かせる。
「十二時五十五分です」
月城が時計を見る。
「もう?」
「五分前にもお伝えしました」
「聞いてなかった」
「存じています」
凪が吹き出した。
「怒られてんじゃん」
月城は手帳を閉じる。
「優秀な秘書なんだよ」
「月城が時間を守らないだけです」
雨宮は淡々と返し、凪へ軽く会釈した。
「次の会議がありますので」
「はいはい。帰る」
凪は立ち上がって扉へ向かった。
月城が声を掛ける。
「どこへ行く」
「昼飯」
「一緒にどう?」
雨宮が月城を見る。
「十三時から会議です」
「だそうだ」
「仕事しろ、おじさん」
凪は扉を開けた。
そのまま出るかと思ったところで、顔だけ戻す。
「……玲士」
月城の手が止まった。
「ちゃんとやれよ」
返事を待たず、凪は雨宮の横を通って出ていった。
扉が閉じる。
雨宮は一度だけ月城を見る。
「次の資料、三分で確認できますか」
月城は手帳へ視線を戻した。
「やってみよう」
「お願いします」
雨宮が出ていったあと、月城は開いた予定表を見る。
埋まった予定の間に、Blue Hourの文字が増えていた。
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