37 / 63

第37話 撮れない声

午後のアトラボスタジオは、外の時間だけを置いてきたように静かだった。 分厚い扉の向こうには吸音材の壁が続き、暗めに落とした室内で、調整卓のランプだけが細かく灯っている。 ギターは昨夜のうちに録り終えていた。 残っているのは、凪隼人の声だった。 ガラスの向こうのボーカルブースで、凪はヘッドホンをつけ、マイクの前に立っている。譜面台には歌詞が置かれていたが、ほとんど見ていない。 調整卓の中央には相沢涼が座り、その隣で紫月颯がモニターを見ていた。少し後ろの壁際には、スーツ姿の月城玲士が腕を組んで立っている。 「一回、通しでいこう」 相沢の声がブースへ入る。 凪は短く手を上げた。 イントロが流れ、ギターのカウントが入る。 歌い出したのは一行だけだった。 「……悪い」 凪はヘッドホンを少し浮かせる。 「もう一回」 相沢は何も言わず、指だけ上げた。 二回目はAメロを越えたが、サビへ入る手前で凪が首を振る。 「違う」 三回目、四回目と続けても、音程もリズムも崩れてはいなかった。 それでも凪だけが止める。 回数が増えるほど、ブースの中でヘッドホンを外す手が少しずつ荒くなっていった。 相沢は通信を切ったまま、モニターを見る。 「……音じゃねぇな」 隣で紫月が腕を組む。 「音は合ってる」 相沢が横を見る。 紫月はガラスの向こうの凪を見たままだった。 「でも、外に出しすぎてる」 「だよな」 「ライブの時と向きが違う」 月城の視線が、わずかに動いた。 紫月はしばらく凪を見てから、調整卓へ目を戻す。 「一回止めろ。今のまま続けても録れねぇ」 相沢はそのまま通信を開いた。 「休憩入れる」 「まだやれる」 「知ってる」 相沢は笑わなかった。 「やれるのと、録れるのは別だ」 凪は舌打ちし、ヘッドホンを外した。 スタジオ横の小さなラウンジで、凪はペットボトルの水を半分ほど一気に飲み、ソファへ身体を沈めた。 「最悪」 少し遅れて扉が開く。 入ってきた相沢が言った。 「月城さんじゃなくて悪いね」 「別に呼んでねぇ」 相沢は向かいへ座らず、カウンターへ寄りかかった。 「お前、今日うまく歌おうとしてる」 凪が眉を寄せる。 「仕事だろ」 「そうだよ」 「なら合ってんだろ」 「今回は違う」 凪は水のボトルを持ったまま黙った。 相沢は軽い声のまま続ける。 「ライブの日、お前、客に歌ってなかった」 「……は?」 「客席の奥に投げてた」 凪の指が止まった。 センターの光と、暗い客席が頭に戻る。 相沢は肩をすくめる。 「今は世間に向けて歌ってる。でもBlue Hourって、もっと狭い場所で鳴っただろ」 凪はペットボトルを握り直した。 「……じゃあどうしろって」 後ろで扉が開いた。 月城だった。 「簡単だよ」 凪が顔を上げる。 月城は入口に立ったまま言う。 「また私に歌えばいい」 凪はしばらく月城を見た。 「は?」 「最初にあの曲を歌った時も、私へ返したんだろう」 「言い方」 「違う?」 凪は立ち上がった。 「……うるせぇ」 相沢が手を叩く。 「はい、戻れ」 「雑」 「時間ない」 凪は舌打ちしながら扉へ向かう。 途中で相沢を振り返った。 「……後で覚えとけ」 「何を」 「全部」 相沢が笑う。 「録れたら聞く」 凪はもう一度ボーカルブースへ入った。 ヘッドホンをつけ、マイクの前へ立つ。 ガラスの向こうでは相沢が調整卓へ戻り、紫月はその隣で腕を組んでいる。月城は少し後ろへ下がっていた。 それでも、凪からは見える。 イントロが流れる。 カウント。 歌い出す。 今度は止まらなかった。 一行目からそのまま進み、サビへ入る。さっきまで引っかかっていた場所も、今度は声の方が先に抜けた。 紫月がほんの少し顔を上げる。 相沢は何も言わない。 凪はガラスの向こうを見ない。 見なくても、どこに月城が立っているか分かっていた。 最後まで歌い切る。 音が止まり、スタジオに静けさが戻った。 相沢が通信を開く。 「……今の、いただきます」 隣で紫月が短く頷いた。 「それでいい」 凪はヘッドホン越しにガラスの向こうを見る。 相沢は少し笑っている。 紫月はもうモニターへ視線を戻していた。 その後ろで、月城が一度だけ頷いた。 凪はそれを見て、眉を寄せた。 ブースを出ると、そのまま相沢の前まで歩いていく。 「お前」 「うん?」 「分かってて玲士そこ立たせただろ」 相沢は迷わず答えた。 「もちろん」 「性格わりぃ」 「褒め言葉として受け取る」 紫月が横から低く言う。 「結果出たならいいだろ」 凪がそちらを見る。 「お前も分かってた?」 「途中でな」 「最悪」 「知らねぇよ」 後ろで月城が小さく笑った。 凪はそちらを見る。 「おじさん、お前もだ」 「光栄だね」 凪は顔をしかめたまま、少しだけ笑った。 調整卓のモニターには、さっき録ったテイクの波形が残っていた。

ともだちにシェアしよう!