38 / 63

第38話 公開前夜

Blue Hourの公開まで、あと二十三分だった。 アトラボ三階には、作業席ごとの灯りだけが残っている。窓の外はすでに暗く、空調の低い音と、遠くでキーボードを叩く音が重なっていた。 凪隼人は窓際の席で椅子を少し倒し、ギターを膝へ乗せていた。 弾いてはいない。 指先だけが、何度も同じ弦へ触れている。 モニターにはBlue Hourの最終データが開かれていた。 MV master Scheduled 00:00 「……知らねぇ」 向かいの席で相沢涼が笑った。 「めちゃくちゃ気にしてる人の声だな」 「してねぇ」 「今日それ何回目?」 「うるせぇ」 相沢は椅子を回し、モニターに出ているサムネイルを見る。 夕暮れの埠頭。 風の中で歌う凪の横顔。 「いい出来だよ」 「知ってる」 「素直で気持ち悪いな」 「今のは作品に言った」 凪はモニターへ視線を戻した。 奥の席では、高澤廉が資料を確認していた。 「公開後、問い合わせ増えるな」 「何の」 「取材、タイアップ、配信交渉」 「知らねぇ」 「頭には入れとけ」 高澤は資料を閉じる。 「月城さんからも連絡来てる」 凪の指が止まった。 「……何て」 「公開時間には見る、だそうだ」 「聞いてねぇ」 「今知ったな」 相沢が吹き出す。 「分かりやす」 凪はギターを脇へ置き、スマートフォンを取った。 通知は一件。 月城玲士。 《緊張しているかい》 凪はすぐに返す。 《してねぇ》 既読がつき、少しして返信が来た。 《そういう時、返信が早い》 凪は顔をしかめる。 《うるせぇ》 《今どこ?》 《会社》 《知っているよ》 《なら聞くな》 相沢が身を乗り出した。 「見せて」 「見るな」 凪はスマートフォンを伏せた。 また震える。 《一階にいる》 凪は画面を見たまま眉を寄せた。 「……何してんだあいつ」 相沢が覗き込もうとする。 「来た?」 「見るな」 高澤は資料から顔も上げない。 「予定通りだな」 凪が振り返る。 「知ってたのかよ」 「入館の連絡は来てる」 「言えよ」 「本人から来るだろ」 相沢が笑う。 「行ってこいって」 「何で俺が」 「来てもらってんだから」 スマートフォンがまた震えた。 《降りておいで》 《嫌だ》 《あと十五分だ》 《だから何》 《一緒に待とう》 凪はしばらく画面を見た。 月城なら、自分が気にしていることまで分かって書いている。 「……行ってくる」 相沢がすぐに返す。 「いってらっしゃい」 「うるせぇ」 「公開前に物騒だな」 凪はエレベーターへ向かった。 背中へ相沢の声が飛ぶ。 「凪」 「何だよ」 「今夜、お前いい顔してる」 凪は返さず、そのまま乗り込んだ。 一階へ降りる。 夜のエントランスは昼より静かで、受付側の照明だけが落とされずに残っていた。警備カウンターの向こうには職員の姿があり、その少し離れた待合スペースにソファが並んでいる。 月城はその一つに座っていた。 スーツ姿のまま、手元のスマートフォンを見ている。 凪に気づくと顔を上げた。 「こんばんは」 「……なんで来た」 「来たかったから」 「ここ会社だぞ」 「知ってる」 「仕事しろ」 「したよ」 月城は腕時計を見る。 「あと十二分」 凪はポケットへ手を入れた。 「だから?」 月城が凪を見る。 「君と見たい」 その言い方だけ、少し静かだった。 凪は目を逸らす。 「……きも」 「今さらだね」 凪は月城の隣へ座った。 エントランスのガラス越しに、夜の道路を車の灯りが流れている。奥では警備側の気配があるが、こちらまで声は届かなかった。 月城が言った。 「出したら、君の手元だけには置いておけなくなる」 凪が眉を寄せる。 「何それ」 「聴いた人が、それぞれ自分のBlue Hourを持つようになる」 「難しいこと言うな」 「悪いことじゃないよ」 凪はしばらく黙っていた。 やがて、前を向いたまま言う。 「……少しやだな」 月城は何も言わず待った。 「俺の夜だったから」 月城の視線が凪へ向く。 その直後、二人のスマートフォンがほとんど同時に震えた。 00:00。 Blue Hour Now Available 凪は通知を開いたまま息を吐く。 月城が小さく笑った。 「出たね」 「……終わった感じする」 「私はしないけどね」 凪が顔を上げる。 「何で」 「これから聴く人が増えるから」 凪はもう一度、画面に表示されたBlue Hourを見る。 さっきまで自分たちの側にあったものが、もう外へ出ている。 しばらくして、凪はスマートフォンを伏せた。 「……戻る」 「うん」 立ち上がった凪が数歩進んでから振り返る。 「玲士」 月城が顔を上げる。 「来てくれて、ありがと」 月城は少しだけ目を細めた。 「どういたしまして」 凪はそれ以上何も言わず、エレベーターへ向かった。 月城は追わなかった。 エントランスのガラスの向こうでは、夜の道路を車の灯りが流れていた。

ともだちにシェアしよう!