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第38話 公開前夜
Blue Hourの公開まで、あと二十三分だった。
アトラボ三階には、作業席ごとの灯りだけが残っている。窓の外はすでに暗く、空調の低い音と、遠くでキーボードを叩く音が重なっていた。
凪隼人は窓際の席で椅子を少し倒し、ギターを膝へ乗せていた。
弾いてはいない。
指先だけが、何度も同じ弦へ触れている。
モニターにはBlue Hourの最終データが開かれていた。
MV master
Scheduled 00:00
「……知らねぇ」
向かいの席で相沢涼が笑った。
「めちゃくちゃ気にしてる人の声だな」
「してねぇ」
「今日それ何回目?」
「うるせぇ」
相沢は椅子を回し、モニターに出ているサムネイルを見る。
夕暮れの埠頭。
風の中で歌う凪の横顔。
「いい出来だよ」
「知ってる」
「素直で気持ち悪いな」
「今のは作品に言った」
凪はモニターへ視線を戻した。
奥の席では、高澤廉が資料を確認していた。
「公開後、問い合わせ増えるな」
「何の」
「取材、タイアップ、配信交渉」
「知らねぇ」
「頭には入れとけ」
高澤は資料を閉じる。
「月城さんからも連絡来てる」
凪の指が止まった。
「……何て」
「公開時間には見る、だそうだ」
「聞いてねぇ」
「今知ったな」
相沢が吹き出す。
「分かりやす」
凪はギターを脇へ置き、スマートフォンを取った。
通知は一件。
月城玲士。
《緊張しているかい》
凪はすぐに返す。
《してねぇ》
既読がつき、少しして返信が来た。
《そういう時、返信が早い》
凪は顔をしかめる。
《うるせぇ》
《今どこ?》
《会社》
《知っているよ》
《なら聞くな》
相沢が身を乗り出した。
「見せて」
「見るな」
凪はスマートフォンを伏せた。
また震える。
《一階にいる》
凪は画面を見たまま眉を寄せた。
「……何してんだあいつ」
相沢が覗き込もうとする。
「来た?」
「見るな」
高澤は資料から顔も上げない。
「予定通りだな」
凪が振り返る。
「知ってたのかよ」
「入館の連絡は来てる」
「言えよ」
「本人から来るだろ」
相沢が笑う。
「行ってこいって」
「何で俺が」
「来てもらってんだから」
スマートフォンがまた震えた。
《降りておいで》
《嫌だ》
《あと十五分だ》
《だから何》
《一緒に待とう》
凪はしばらく画面を見た。
月城なら、自分が気にしていることまで分かって書いている。
「……行ってくる」
相沢がすぐに返す。
「いってらっしゃい」
「うるせぇ」
「公開前に物騒だな」
凪はエレベーターへ向かった。
背中へ相沢の声が飛ぶ。
「凪」
「何だよ」
「今夜、お前いい顔してる」
凪は返さず、そのまま乗り込んだ。
一階へ降りる。
夜のエントランスは昼より静かで、受付側の照明だけが落とされずに残っていた。警備カウンターの向こうには職員の姿があり、その少し離れた待合スペースにソファが並んでいる。
月城はその一つに座っていた。
スーツ姿のまま、手元のスマートフォンを見ている。
凪に気づくと顔を上げた。
「こんばんは」
「……なんで来た」
「来たかったから」
「ここ会社だぞ」
「知ってる」
「仕事しろ」
「したよ」
月城は腕時計を見る。
「あと十二分」
凪はポケットへ手を入れた。
「だから?」
月城が凪を見る。
「君と見たい」
その言い方だけ、少し静かだった。
凪は目を逸らす。
「……きも」
「今さらだね」
凪は月城の隣へ座った。
エントランスのガラス越しに、夜の道路を車の灯りが流れている。奥では警備側の気配があるが、こちらまで声は届かなかった。
月城が言った。
「出したら、君の手元だけには置いておけなくなる」
凪が眉を寄せる。
「何それ」
「聴いた人が、それぞれ自分のBlue Hourを持つようになる」
「難しいこと言うな」
「悪いことじゃないよ」
凪はしばらく黙っていた。
やがて、前を向いたまま言う。
「……少しやだな」
月城は何も言わず待った。
「俺の夜だったから」
月城の視線が凪へ向く。
その直後、二人のスマートフォンがほとんど同時に震えた。
00:00。
Blue Hour
Now Available
凪は通知を開いたまま息を吐く。
月城が小さく笑った。
「出たね」
「……終わった感じする」
「私はしないけどね」
凪が顔を上げる。
「何で」
「これから聴く人が増えるから」
凪はもう一度、画面に表示されたBlue Hourを見る。
さっきまで自分たちの側にあったものが、もう外へ出ている。
しばらくして、凪はスマートフォンを伏せた。
「……戻る」
「うん」
立ち上がった凪が数歩進んでから振り返る。
「玲士」
月城が顔を上げる。
「来てくれて、ありがと」
月城は少しだけ目を細めた。
「どういたしまして」
凪はそれ以上何も言わず、エレベーターへ向かった。
月城は追わなかった。
エントランスのガラスの向こうでは、夜の道路を車の灯りが流れていた。
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