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第39話 朝の数字

Blue Hourは、凪隼人が眠っているあいだにも広がっていた。 次の静岡公演まで、あと四日。 朝のアトラボ三階では、全国ツアーの合間とは思えないほど別の案件が動いている。コーヒーメーカーは何度も動き、キーボードを叩く音と誰かの笑い声が重なっていた。 凪が自動ドアをくぐった瞬間、相沢涼が立ち上がった。 「来た」 「うるせぇ」 「主人公来た」 「帰るぞ」 「帰る前に見ろ」 相沢は凪の肩を掴み、そのままモニターの前まで連れていく。 「やだ」 「いいから」 画面にはBlue Hourの配信ページが開かれていた。 再生数は、三十万を越えている。 凪の目が止まった。 「……バグ?」 「朝八時でこれは強いな」 奥から高澤廉が言う。タブレットを持ったまま、別の資料にも目を通していた。 「海外比率も高い」 「何の話だよ」 「コメント欄見ろ」 相沢が画面をスクロールする。 英語や韓国語、中国語、スペイン語のコメントが混ざっていた。 《Who is this singer?》 《Original song? Remake?》 《Need full live version》 《This voice hurts》 凪は眉を寄せる。 「痛ぇのかよ」 「褒めてんだろ」 「知らねぇ文化だな」 相沢は笑いながら、さらに下へ送った。 「これ見ろ」 《The older man in the video, who is he?》 凪の視線が止まる。 「……は?」 高澤が淡々と補足した。 「月城さんが映り込んでるカットだな」 「何でそこ拾うんだよ」 「目立つからだろ」 「腹立つ」 相沢が机に手をついて笑う。 「歌よりそっち気にしてんの?」 「してねぇ」 「してる顔だな」 凪はキャップを少し深く被った。 おすすめ欄には、すでにBlue Hourを扱った動画が並び始めている。初見の反応、曲の解説、ライブ版を求めるものまであった。 「……早すぎんだろ」 高澤が画面を見る。 「出した時点で、こっちだけのものじゃなくなる」 凪は返事をしなかった。 昨夜、月城玲士が似たようなことを言っていた。 聴いた人が、それぞれ自分のBlue Hourを持つようになる。 「……あいつ」 相沢がすぐ反応する。 「何だよ」 「別に」 凪のスマートフォンが震えた。 表示された名前を見て、少しだけ眉を寄せる。 そのままモニターから離れ、通知を開いた。 《朝の数字は見たかい》 《見てねぇ》 すぐに既読がつく。 《嘘だね》 《うるせぇ》 《機嫌が悪そうで安心した》 《黙れ》 《今夜、時間ある?》 凪の指が止まった。 少しして、 《知らねぇ》 と返す。 《君の知らねぇは空いてる時だ》 《勝手に決めんな》 《では十九時に》 「……決めてんじゃねぇよ」 小さく漏れた声を、相沢が拾った。 「デート?」 凪が振り返る。 「見んな!」 「当たりか」 「違ぇ!」 高澤は資料から顔も上げない。 「声が大きい」 「うるせぇ!」 フロアに笑いが広がった。 凪はそのまま窓際の席へ移り、ギターケースを置く。 椅子へ座ってモニターをつけると、制作途中の新規プロジェクトが開いた。 まだ名前のないセッションデータ。 カーソルだけが点滅している。 凪はしばらく画面を見ていた。 昨夜公開したBlue Hourは、もう朝のうちから知らない場所へ広がり始めている。 それでも自分の手元には、まだ何も入っていない新しいトラックが残っていた。 机の下で、凪の指がゆっくり動く。 昨日まではなかったコードだった。 遠くから相沢の声が飛ぶ。 「凪」 「何だよ」 「次、来てんじゃん」 凪は一度だけ手を止めた。 「来てねぇ」 「その顔で分かる」 「うるせぇ」 凪はモニターへ向き直り、もう一度同じコードを指でなぞった。

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