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第40話 触れないまま近い
Blue Hourを公開してから、ほぼ一日が過ぎていた。
夜が深くなっても数字は伸び続け、SNSには新しい切り抜きや感想が増えている。アトラボ三階もようやく人が減り、作業席の灯りは半分ほどまで落ちていた。
凪隼人は窓際の席で、ギターケースを閉じるところだった。
新しいセッションを開いては閉じ、コードをいくつか鳴らしても、その先へ進まない。何も作れなかったわけではないのに、手応えだけが残らない一日だった。
スマートフォンが震える。
月城玲士。
《終わった?》
《知らねぇ》
《それは終わった時の返事だね》
《うるせぇ》
《下にいる》
凪は眉を寄せ、窓際まで歩いた。
アトラボ前の車寄せに、深いグレーのセダンが停まっている。
いつもの黒い役員車ではない。
運転席側のドアが開き、スーツ姿の月城が降りてきた。
「……何してんだあいつ」
背後から相沢涼が覗く。
「今日、車違うね」
「見るな」
「しかも自分で運転してる」
「見るなって言ってんだろ」
相沢は楽しそうに笑った。
「最近、迎え率高いな」
「違ぇよ」
資料を閉じながら高澤廉が通り過ぎる。
「素直に帰ればいいだろ」
「誰も聞いてねぇ」
「声でかい」
凪はギターケースを肩へ掛けた。
「お先」
「いってらっしゃい」
相沢が手を振る。
「黙れ」
一階へ降りると、自動ドアの向こうから少しぬるい夜気が入ってきた。
月城がこちらを見る。
「お疲れさま」
「……何しに来た」
「来たかったから」
「昨日も聞いた」
「答えも同じだよ」
凪は車を見る。
「今日、車違う」
「気づいた?」
「相沢が言ってた」
「彼はよく見てるね」
「自分で運転してんの」
「たまにはね」
「暇かよ」
月城は少し笑った。
「君を迎えに来る程度には」
「きも」
「今さらだね」
月城が助手席のドアを開ける。
凪は一度そこを見た。
いつものように後部座席へ乗る車ではない。
月城自身が運転席へ回っていく。
「乗らないのかい」
「乗る」
「素直だ」
「うるせぇ」
車が走り出すと、窓の外を東京の灯りが流れていった。
凪は外を見ていたが、隣でハンドルを握る月城の手や、少しまくったシャツの袖が視界の端へ何度も入る。
「食事は?」
「食ってねぇ」
「予想通りだ」
「何でも分かってる顔すんな」
「努力している」
「うるさい」
信号で車が止まった。
赤い光がフロントガラス越しに入り、月城の横顔を薄く照らす。
凪は一度そちらを見て、すぐ窓へ戻した。
「……見んなよ」
「見ていないよ」
「気配がうるせぇ」
「便利な言葉だね」
月城は小さく笑い、青へ変わった信号に合わせて車を出した。
*
そのままマンションの地下へ入り、二人でエレベーターへ乗る。
凪は壁へ身体を預け、上がっていく数字を見ていた。月城は少し離れたところに立っている。
「今日、数字すごかったね」
「知らねぇ」
「見ていただろ」
「見せられた」
「嬉しかった?」
凪は少し考えた。
「……分かんねぇ」
「正直だ」
「お前は?」
月城は一度息を吐く。
「嬉しかったよ」
「市場が?」
「違う」
そこで扉が開いた。
部屋へ入ると、月城は先にダイニングへ向かった。
玄関脇へギターケースを置いた凪がついていく。
「手を洗っておいで」
「子どもかよ」
「食事の前だからね」
「……食事?」
ダイニングテーブルには、白い箱が二つ並んでいた。
温め直したスープから薄く湯気が上がり、パンと肉料理、野菜の皿も用意されている。店の名前が入った紙ナプキンまで揃っていた。
凪はテーブルを見る。
「いつ用意した」
「迎えに行く前に頼んでおいた」
「食うって言ってねぇだろ」
「食べていないと思った」
「怖ぇ」
「当たっていたね」
凪は顔をしかめたが、そのまま椅子へ座った。
月城が水のグラスを置く。
「何飲む」
「水」
「はい」
迷わず出されたグラスを見て、凪が眉を寄せる。
「……慣れてんな」
「覚えたからね」
「うるせぇ」
受け取る時、指先がわずかに触れた。
凪はそのままグラスへ口をつけ、月城も何も言わなかった。
食事は温かかった。
凪は最初こそ少しゆっくり食べていたが、空腹を思い出したように手が進んでいく。
向かいの月城は、それを見ていた。
「見んな」
「食べているか確認している」
「監視だろ」
「似たようなものだね」
「認めんな」
凪はパンをちぎりながら、月城の皿へ目をやった。
肉がまだ半分近く残っている。
「お前もちゃんと食えよ」
「食べているよ」
「残ってんだろ」
「もういい」
「少食すぎんだよ。おじさんか」
「年齢の使い方が雑だね」
凪は月城の皿に残っていた肉を一切れ取り、自分の皿へ移した。
「捨てるよりいいだろ」
「捨てるとは言っていない」
「じゃあ食え」
月城は少し笑って、フォークを取った。
凪はそれを確認してから、自分の皿へ戻る。
テーブルの端では、スマートフォンが何度か震えていた。
再生数もコメントも、知らない誰かの反応も増え続けている。
凪は一度だけ画面を見て、伏せた。
「……今日さ」
「うん」
「世界の曲みたいになってた」
「なったね」
凪は膝に置いた手を見る。
「変な感じだ」
月城は何も急かさなかった。
少しして、凪が続ける。
「俺、あの曲、お前に返しただけだったから」
月城の手が止まる。
「知ってるよ」
「なのに、知らねぇ誰かのもんみたいで」
月城は凪を見た。
「それでも、最初に返ってきた場所は変わらないよ」
凪が顔を上げる。
「君が誰に歌っても、私は最初を知っている」
凪はしばらく月城を見たあと、視線を外した。
「……ずる」
「また言った」
「事実だろ」
食器を片づけても、凪はすぐには帰らなかった。
玄関脇のギターケースをしばらく見てから立ち上がり、一本取り出してソファへ戻る。
「何するの」
「知らねぇ」
アンプにはつながず、あのサビへ続くコードを鳴らした。
月城が少し笑う。
「それ、知ってる音だ」
「うるせぇ。歌えよ」
月城は一度だけ黙り、それから凪の向かいへ座った。
テーブルの端で、またスマートフォンが震える。
凪は見なかった。
もう一度、あのコードを鳴らす。
月城の低い声が、その上へ静かに重なった。
マイクもなく、アンプもない。
窓の外では東京の灯りが流れ、伏せたスマートフォンの画面だけが、ときどき小さく光っていた。
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