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第6話 凪さんの音
澄川律が初めて凪の部屋へ来たのは、アトラボで音を合わせた三日後だった。
仕事の続きをする。
それだけのはずだった。
呼び鈴が鳴り、凪が玄関を開けると、澄川は楽器ケースのほかに小さな紙袋を持って立っていた。
「何それ」
「昆布です」
「何で」
「差し入れ」
凪は紙袋を見る。
「同じマンションから来ただけだろ」
「手ぶらも変かなと思って」
「変じゃねぇよ」
それでも受け取った。中には個包装の昆布がいくつか入っている。
「次からいらねぇからな」
「分かりました」
返事だけは素直だった。
凪は紙袋をキッチンの端へ置いた。
スタジオで合わせた時とは、やはり音が違った。
凪がギターを鳴らし、澄川が声を入れる。前より待てるようになっている。
凪が音を抜いても追いかけてこない。残った響きを聞いてから、自分の呼吸で入ってくる。
途中でコードを一つ減らすと、澄川の視線が指先へ動いた。それでも急がない。
最後まで鳴らし終えると、部屋へ冷蔵庫の低い音が戻ってきた。
「今の、前と違いましたよね」
「一個抜いた」
「こっち好きです」
「じゃあ次もそれで」
「はい」
もう一度鳴らす。
今度は説明しなくても、澄川は同じところで待った。凪も途中で音を変える。
そのまま続けられた。
二時間ほどして、凪はギターを膝から下ろした。
「今日は終わり」
「はい」
澄川も譜面を閉じた。
それでもソファから動かなかった。
凪は水を飲みながら見る。
「帰らないの?」
「もう少しいてもいいですか」
「何で」
澄川は部屋を見回した。
壁際のギターケース。機材。テーブルに残った譜面。
「ここ、落ち着くので」
「同じ間取りだろ」
「でも違います」
「何が」
澄川は少し考え、ギターを見る。
「音があるから」
「お前ん家にもあるだろ」
「凪さんの音です」
凪は水を飲んだ。
「それ、仕事の理由になってる?」
「なってると思います」
「ほんとかよ」
「最初より待てるようになったので」
「自分で分かってんじゃん」
「凪さんが空けるので」
「俺のせい?」
「いい意味です」
凪は少し笑った。
「ならいい」
またギターを持った。
*
それから、澄川が部屋へ来ることは珍しくなくなった。
毎日ではない。確認したいところがある時だけ、短いメッセージが届く。
《凪さん、今日います?》
《なんだよ》
《家にいますか?》
《いるけど》
《じゃあ行きます》
凪は画面を見る。
《来ていいとは言ってねぇ》
少しして返事が来た。
《駄目ですか?》
結局、仕事ならと返した。
次からは、もっと短いやり取りで済むようになった。
差し入れだけは続いた。
昆布の次は茎わかめ。その次は干し梅。
凪はテーブルへ置かれた袋を見る。
「いらねぇって言っただろ」
「でも食べてますよね」
「持ってくるからだろ」
「嫌いじゃない?」
「嫌いじゃねぇけど」
「じゃあよかったです」
凪は干し梅を一つ口へ入れ、ギターへ手を戻した。
その日は少し長くなり、気づけば二十時を過ぎていた。
凪がギターを片づけると、澄川も譜面を閉じた。
「腹減った」
「俺もです」
「帰れば」
「はい」
返事をしたのに動かない。
凪は冷蔵庫を開けた。
鶏肉と野菜が残っている。
「適当に作るけど食う?」
澄川がすぐ顔を上げた。
「いいんですか?」
「もう作るから」
「食べます」
「返事だけ早ぇな」
凪は鶏肉を取り出した。
フライパンを出していると、背後から声がする。
「何かします?」
「いらねぇ」
「暇です」
凪は棚を顎で示した。
「じゃあ皿出せ」
澄川が迷わず扉を開ける。
違った。
「そっちじゃねぇ」
「あ」
「右」
澄川は言われた方の扉を開ける。
「これですか」
「それ」
二枚の皿を出し、調理台の端へ置く。
「次覚えます」
「次ある前提で言うな」
食べ始める頃には、セッションの話はしなくなっていた。
澄川は鶏肉を一口食べ、顔を上げる。
「おいしいです」
「そう」
「凪さん、料理もうまいんですね」
「普通だろ」
「でも、ちゃんとしてます」
「これで?」
「はい」
澄川はそのまま食べ続けた。
テーブルの端には、今日持ってきた干し梅が残っていた。
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