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第8話 マネージャーは何してるんですか
高澤との打ち合わせを終えたのは、十四時を少し過ぎた頃だった。
海外向けのライブ映像と、澄川律のセッション企画。どちらも大きな変更はなく、収録日も公開地域も予定どおり進められる。
会議室のテーブルには、確認を終えた資料がまだ広がっていた。
高澤は時計を見ると、必要な書類をまとめて立ち上がる。
「では、あとはお願いします」
「分かった」
「何かあれば白石を通してください」
「ああ」
高澤が出ていったあと、月城玲士も手元のファイルを鞄へしまった。
廊下へ出ると、午後のアトラボは人の出入りが多かった。
少し先の共有スペースでは社員が資料を抱えて行き交い、開いた打ち合わせ席ではモニターを囲んで話している。
その向こうから、わずかに空気の違うざわめきが届いた。
月城は歩幅を緩めた。
廊下の端に澄川律が立っている。
仕事用の鞄を肩に掛け、片手には小さな紙袋。少し離れたところでは社員が二人、澄川の方を見ながら声を落としていた。
「澄川律じゃない?」
聞こえた名前に、近くの席からも一人が顔を上げる。
澄川は気づいていないらしい。
そのまま廊下を進もうとしたところで、若い社員が思い切ったように声をかけた。
「あの、澄川さん」
澄川が振り返る。
「はい」
「すみません。サインお願いしてもいいですか」
「あ、いいですよ」
澄川は普通に足を止めた。
頼んだ社員が慌てて手帳を取り出す。その様子に気づいた周囲から、もういくつか視線が集まった。
騒ぎというほどではない。
それでも、それまで仕事へ向いていた空気が少しだけ澄川へ寄る。
その間を抜けるように、名取圭吾が早足でやってきた。
「澄川さん」
「はい」
名取はサインを受け取って頭を下げる社員を見送り、それから澄川へ向き直った。
「今日、十五時からですよね」
「はい」
「早いですね」
澄川も自分の時計を見た。
「早かったですね」
「そういう意味じゃないです」
名取の声には、すでに少し疲れが混じっていた。
月城は腕時計を見る。
十五時までは、まだ四十分以上ある。
「誰かと約束してます?」
「してないです」
「じゃあ何で、こんなに早く」
澄川は少しも迷わなかった。
「凪さんいるかなと思って」
月城の指が、鞄の持ち手で止まった。
名取も一度黙る。
「所属側には、早く入るって連絡しました?」
「してないです」
「してください」
「今?」
「今です」
澄川は素直にスマートフォンを取り出した。
名取は澄川のマネージャーではない。今日の制作進行上、現場へ繋いでいるだけだ。
それでも予定外の時間に外部の人間が来れば、誰かが対応することになる。
澄川がメッセージを打っている間に、名取の視線が紙袋へ落ちた。
「それ、何ですか」
「差し入れです」
「誰に」
「凪さんに」
月城もそちらを見る。
小さな紙袋だった。
名取が息を吐いた。
「またですか」
澄川は紙袋を見た。
「凪さんに食べてもらいたくて」
名取が一度黙る。
「……そうですか」
月城は何も言わなかった。
「送りました」
澄川がスマートフォンをしまう。
「じゃあ十五時までラウンジで待っててください」
「凪さんは?」
名取の眉がわずかに動いた。
「今は探さなくていいです」
「でも」
「十五時から仕事です。予定より早く来て中を歩かれると、社員も普通に驚くんですよ」
澄川は少しだけ周囲を見る。
「でも、凪さんと相沢さんは普通にいますよね」
名取の眉が動いた。
「二人はここの社員です」
「あ」
「芸能関係の人だからいるんじゃないです。ここで普通に働いてる側です」
澄川はもう一度、さっきサインを求めてきた社員の方を見る。
「そういうことですか」
「そういうことです。あと一階のカフェは一般のお客さんも入るので、そこで待つのもなしです」
「分かりました」
返事は素直だった。
月城はそこで歩き出した。
「澄川くん」
澄川が振り返る。
「あ、お疲れさまです」
「今日は十五時からではなかったかな」
「はい」
「ずいぶん早いね」
澄川は紙袋を持ち直した。
「凪さんいるかなと思って」
さっきと同じ答えだった。
「それは?」
月城が紙袋を見る。
「差し入れです」
「凪に?」
「はい」
「そう」
返事が短くなった。
名取がこちらを見る。
月城は気づかないふりをした。
「今日も音合わせるので」
澄川が続ける。
「聞いているよ」
「前より、かなりいいです」
月城も、最近のセッション音源でその変化は聞いていた。以前より急がず、凪が空けた場所を埋めずに待つ。
「十五時まで待ってます」
「そうして」
澄川は素直にラウンジの方へ歩いていった。
途中ですれ違った社員が一度だけ振り返る。
澄川は今度は足を止めず、そのまま名取に指定された席へ向かった。
名取がタブレットを閉じる。
「すみません」
「君が謝ることじゃないよ」
「最近、ちょっと早いんですよね」
月城は名取を見る。
「よく来る?」
「はい」
「仕事で?」
名取はすぐには答えず、少しだけ言葉を選んだ。
「仕事もあります」
「そう」
月城はそれ以上聞かなかった。
名取の視線がラウンジへ向く。
「十五時まではあそこにいてもらいます」
「頼むよ」
「僕、マネージャーじゃないんですけどね」
「知ってるよ」
「本人にも伝わってほしいです」
月城は少し笑った。
「早入りの件はこちらからも共有しておくよ」
名取の顔がわずかに緩む。
「お願いします」
「君が彼のマネージャーになる必要はないからね」
「本当にお願いします」
そこだけは、月城も素直に同情できた。
エレベーターのボタンを押す。
扉が開き、月城は一度だけラウンジの方へ目を向けた。
澄川は奥の席に座っていた。
小さな紙袋は、まだ手にある。
月城はエレベーターへ乗り込んだ。
扉が閉まり、澄川の姿が見えなくなる。
一階へ着く。
カフェから人の声が流れてきた。
月城はその前を通り過ぎる。
さっき見た小さな紙袋の形だけが、妙に鮮明に残っていた。
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