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第9話 面白くない

仕事を終えて部屋へ戻った頃には、二十一時を過ぎていた。 凪隼人は玄関へギターケースを置き、ジャケットを脱いだ。誰もいない部屋には、冷蔵庫と機材の低い音だけが残っている。 ソファの背に、見慣れない上着が掛かっていた。 澄川律のものだった。 前日のセッションで脱いだまま忘れていった。同じマンションに住んでいる。急いで届けるほどでもないと思い、そのままにしてある。 凪は一度だけ上着を見て、キッチンへ向かった。 冷蔵庫を開けたところで、スマートフォンが震える。 月城だった。 《今日は家?》 《いる》 返すと、すぐに既読がついた。 少しして、もう一通届く。 《行ってもいい?》 凪の指が止まった。 少し前、自分は月城にこの部屋へ来るなと言った。 月城との関係を隠したかったわけではない。自分の音まで、月城の立場やVERTEXとの近さで見られるのが嫌だった。 その線は今も変わっていない。 けれど最近、この部屋には澄川が仕事で出入りしている。昨日は上着まで忘れていった。 月城だけを外へ置いたままにする理由は、前ほどはっきりしなかった。 凪は画面へ視線を戻す。 《来れば》 それだけ返した。 四十分ほどして、インターホンが鳴った。 扉を開けると、月城は一人だった。仕事帰りらしくジャケットを着たままで、ネクタイだけ少し緩んでいる。 「久しぶりだね」 「この部屋が?」 「そう」 凪が身体を退けると、月城は靴を脱いで中へ入った。 リビングは以前とほとんど変わっていない。低いソファとローテーブル。壁際の機材とギター。 月城の足が、ソファの前でわずかに止まった。 「それ」 凪も視線を向ける。 「澄川の」 「忘れていったの?」 「昨日な」 「そう」 月城は上着を見たまま、少しだけ黙った。 凪はキッチンへ向かい、水を二つ用意する。ひとつを月城へ渡した。 「取りに来るって?」 「そのうち来るだろ。同じマンションだし」 「そうなんだね」 凪はグラスを持ったまま月城を見る。 「その『そう』やめろよ」 「変かな」 「変」 月城は水を一口飲んだ。 凪が冷蔵庫を閉める頃には、その視線がもう一度だけ上着へ戻っていた。 「玲士」 「何?」 「面白くない?」 月城の目が凪へ戻る。 すぐには答えなかった。 代わりに、ソファの背へ掛かった上着を見る。 凪は少し笑った。 「やっぱ分かりやすくなったな、お前」 「君が分かるようになったんじゃないかな」 「同じだろ」 「違うよ」 月城はグラスをテーブルへ置いた。 「澄川が来るの、嫌?」 「仕事で来ることは嫌じゃないよ」 「じゃあ何」 月城は今度は凪を見る。 「君の家にいることが、あまりにも普通になっているのが面白くない」 凪も上着へ目をやる。 「だからって意味ねぇよ」 「分かっているよ」 返事は早かった。 「ならいいじゃん」 「分かっていても、面白くないものはあるよ」 凪は月城を見る。 「お前、言うようになったな」 「隠しても君に分かるからね」 「開き直った?」 「少し」 月城が一歩近づく。 凪も退かなかった。 「それで今日来たの?」 「君のところへ来たかったのは本当だよ」 「上着見て、余計面白くなくなった?」 「かなり」 即答だった。 凪はとうとう笑った。 「返しに行く?」 月城は少し考えてから、首を振る。 「それは君が決めることだよ」 「そこはちゃんとしてんのな」 「仕事まで変える気はないからね」 凪は月城のシャツへ手を掛けた。 「めんどくせぇ」 「今さらだろう?」 「まあな」 月城の手が背中へ回る。 凪はそのまま身体を預けた。 しばらくして、凪は月城の胸元から身体を離した。 「飯食った?」 「まだ」 「また?」 「今日は単純に時間がなかった」 「食う?」 月城の表情が少し和らぐ。 「お願いしようかな」 凪はキッチンへ向かった。 「座ってろ」 「前にも言われたね」 「覚えてんのかよ」 「君の家で最初に食べたものも覚えているよ」 「怖」 「今さらだね」 凪は冷蔵庫から肉と野菜を取り出した。 「玲士、皿出して」 「どこ?」 「上」 月城が棚へ手を伸ばす。 凪はフライパンを火にかけた。

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