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第10話 張り合っているよ

翌日の昼を過ぎても、月城は帰らなかった。 キッチンには昼食に使った皿が残り、凪が洗ったものを水切りへ置く間も、ソファからノートPCのキーを打つ音が聞こえている。 月城は午前中からそこで仕事をしていた。コーヒーも二杯目だった。 ソファの背には、昨日と同じ澄川の上着が掛かっている。 凪は手を拭きながら振り返った。 「お前、今日いつ帰るの」 月城が画面から目を上げる。 「決めてないよ」 「澄川来るぞ」 「知ってる」 今日の午後は、自宅でセッションの続きをする。そのことも昨夜のうちに話してあった。 「じゃあ帰んねぇの?」 月城は少しだけ首を傾けた。 「帰らないよ」 「何で」 「今日は君の家にいたいから」 それだけ言うと、月城はまたPCへ視線を戻した。 凪はしばらくその横顔を見て、手にしていた布巾を畳んだ。 * インターホンが鳴ったのは、それから三十分ほどあとだった。 玄関を開けると、澄川は仕事用のバッグと小さな紙袋を持って立っていた。 「こんにちは」 「ほんとに来たな」 「来るって言いました」 凪が中へ通す。 リビングへ入った澄川は、月城の姿を見る。 「月城さん」 「こんにちは、澄川くん」 それだけだった。 月城はノートPCを閉じ、ローテーブルの端へ寄せる。 澄川はバッグを壁際へ置いたところで、ソファの背に掛かった上着に気づいた。 「あ」 「忘れてただろ」 「そうでした」 「気づいてなかったの?」 「今気づきました」 「遅ぇよ」 澄川は上着を手に取り、紙袋と一緒に端へ置く。 月城は何も言わなかった。 凪が紙袋を見る。 「今日は何」 「干し梅です」 「戻ったな」 「何がですか」 「海藻じゃない」 澄川は少し考える。 「目が覚めるかと思って」 「基準そこ?」 ソファの方から、月城の笑う声がした。 凪はそちらを見る。 月城もこちらを見ていた。 セッションが始まると、部屋にはすぐギターと声だけが残った。 凪が音を抜けば、澄川は空いた場所へ全部入らない。残った響きを聞き、自分の呼吸で次へ入る。 途中で凪が進み方を変えると、澄川の視線が一度だけ動いた。次には合わせる。 「そこ、今ので」 「はい」 同じ場所へ戻り、今度は止めずに進んだ。 月城は少し離れたソファで聞いている。 何度か繰り返して休憩へ入ると、月城が初めて口を開いた。 「澄川くん」 「はい」 「前より変わったね」 澄川が譜面から顔を上げる。 「どこがですか」 月城は凪のギターへ目をやった。 「凪が空けたところへ、全部入らなくなった」 澄川は少し黙った。 「前は、空いてたら入れた方がいいと思ってました」 「今は?」 「待った方がいい時もあるなって」 月城が頷く。 「いいと思うよ」 それだけだった。 凪はギターへ手を戻す。 「もう一回やるぞ」 澄川も息を整えた。 * 夕方まで合わせると、澄川も何度か水へ手を伸ばすようになった。 凪がギターをケースへ戻すと、部屋へ冷蔵庫や空調の低い音が戻ってくる。 澄川がキッチンの方を見る。 「見るな」 「何も言ってないです」 「顔で分かる」 凪は冷蔵庫を開けた。 野菜と肉が残っている。 「食うなら手伝え」 澄川がすぐに立ち上がる。 月城もソファから動いた。 「何かしようか」 凪は二人を見る。 「何だこれ」 「夕食の準備じゃない?」 「そういう意味じゃねぇ」 フライパンを出している間に、澄川は食器棚へ向かった。何度も来ているので、もう皿の場所を知っている。 月城も昨日教えた棚からグラスを出した。 凪は二人を見比べる。 「何で二人とも場所知ってんだよ」 澄川が皿を並べる。 「何回か来てるので」 月城もグラスを置いた。 「昨日教えてもらったからね」 凪は月城を見る。 「張り合うな」 「張り合ってるよ」 返事が早かった。 凪は思わず笑った。 澄川だけが二人の顔を交互に見る。 「何にですか?」 「お前は知らなくていい」 「そうですか」 そこは素直に引いた。 食事が終わる頃には、窓の外はすっかり暗くなっていた。 澄川は使った食器を流しへ運び、譜面をまとめた。忘れていた上着も腕に掛ける。 玄関で靴を履きながら凪を見る。 「次、いつですか?」 「決まったら連絡する」 「明日は?」 「来んな」 「じゃあ明後日にします」 「勝手に決めんな」 澄川は少し笑った。 「ご馳走様でした」 「おう」 扉が閉じる。 凪は鍵を掛け、リビングへ戻った。 月城はまだソファにいた。 「ほんとに帰らなかったな」 「言っただろう?」 凪はその前まで行く。 「嫉妬してんのに、普通に聞いてたな」 「嫉妬していることと、音を聴くことは別だからね」 「開き直ってる」 「かなりね」 月城の隣には、一人分の場所が空いている。 凪はそこへ座った。 ソファが沈む。 月城の腕が背中へ回った。 「隠さなくなったな、お前」 月城が凪を見る。 「君がそうしたんじゃない?」 「俺のせいにすんな」 「戻す気もないだろう?」 凪は答えず、月城のシャツへ手を掛けた。 「前より遠慮ねぇな」 「元々、君の前ではあまりしていなかったと思うよ」 「今、何考えてんの」 「君に触れたい」 「それだけ?」 「今はね」 背中にある月城の手が、わずかに動いた。 凪は止めなかった。 「めんどくせぇ」 「昨日も聞いたね」 「意味違うから」 「どちらがいい?」 凪は月城のシャツを少し引いた。 「今の方」 月城の腕が強くなる。 ソファの背から、澄川の上着はなくなっていた。 ローテーブルには月城のノートPCが残り、キッチンには三人が使ったグラスが並んでいる。 凪は月城の肩へ身体を預けた。

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