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第17話 名前のつく夜
目を覚ますと、カーテンの隙間から朝の光が入っていた。
昨夜は半分だけ閉じたままにしていたらしい。細い光が床を横切り、ベッドの端まで届いている。
凪はしばらく目を開けたまま動かなかった。
背中にはまだ腕がある。
少し顔を動かすと、隣で月城が眠っていた。二十一日ぶりに戻ってきた男が、画面の中ではなく同じベッドにいる。
寝ている間に腕が緩んだらしく、昨夜ほど身体は近くない。それでも手は凪の腰のあたりに残っていた。
凪はその手を一度見て、また目を閉じる。
本来なら、月城はまだ帰ってきていない朝だった。
今頃は空港へ向かっていたか、まだ移動の途中だったかもしれない。
隣からは深い呼吸が聞こえる。
予定を詰めて一日早く帰ってきたのだから、疲れているのも当然だった。
凪は起こさないように腕から抜け、ベッドを出た。
リビングへ行くと、昨夜脱いだ月城のジャケットはきちんと掛けられ、テーブルの端には腕時計が置かれていた。
大きな窓の向こうには、夜とは違う東京が広がっている。高い建物の間を朝の光が埋め、遠くの道路を車が流れていた。
凪はキッチンへ入り、冷蔵庫を開ける。
飲み物が少しあるだけで、あとはほとんど空だった。
「ほんとに何もねぇな」
小さく言って扉を閉める。
背後から足音がした。
振り返らなくても分かる。
「起きた?」
「今」
月城の声にはまだ眠気が残っていた。
そのままキッチンへ入り、コーヒーを淹れ始める。凪も棚からカップを取った。
久しぶりの動きだった。
月城がコーヒーを用意し、凪が隣で待つ。
何でもない朝なのに、二十一日間なかっただけで少し違って見える。
「眠れた?」
「お前よりは」
「私はかなり寝たよ」
「知ってる。起きなかったし」
月城が少し笑う。
二人で窓際のテーブルへ座った。
朝食はない。
それでも、湯気の向こうには月城がいた。
月城は途中で何度かスマートフォンを確認したが、急ぎの連絡にだけ短く返し、すぐに画面を伏せた。
今日は二人とも予定がない。
コーヒーを飲み終えると、凪は玄関脇に置いていたギターケースをリビングへ運んだ。
ローテーブルには、出発前から使っていたノートがある。
月城が残した言葉の横で、凪の音は少しずつ変わっていた。一人で埋められるところも、あえて残したままになっている。
凪はギターを構え、今の形を最初から弾いた。
月城は何も言わずに聞いている。
最後の音が消えると、月城が自分の鞄を取りに行った。
戻ってきた手には、見覚えのない薄いノートがある。
「何それ」
「向こうで書いてた」
開くと、短い言葉がいくつも残っていた。
移動した夜や、眠れなかった朝。凪から音が届いたあとに書いたものもある。
二十一日間、凪が日本で音を変えているあいだ、月城も離れた場所で言葉を残していた。
二冊のノートをテーブルへ並べる。
そこからは早かった。
凪が音を削り、月城が言葉を減らす。合わなければ戻り、また鳴らす。
出発前にも何度もやっていたことなのに、今は前ほど言葉がいらない。
凪が空けたところを月城が知っている。
月城が言葉を置きたい場所も、凪には分かった。
昼が近づく頃には、一か所だけ残っていた。
凪が最後まで触らなかったところだった。
「ここ」
少し前へ戻り、ギターを鳴らす。
月城は隣でノートを閉じた。
音が一つ落ちる。
凪は次へ急がず、そのまま待った。
静けさの中へ、月城の声が入る。
凪の指がわずかに止まりかけた。
低い声だった。
話している時より少し長く息を使い、凪が残したところへ自然に入ってくる。
すぐ隣で、月城が歌っている。
「……そこ」
月城が止まる。
「違った?」
「いや」
凪は同じ場所へ戻る。
「今のでいい。もう一回」
もう一度鳴らす。
今度は月城も迷わなかった。
凪の音が引いたあとへ、月城の声が入る。
全部を埋めるわけではない。
凪が待てば、月城も待つ。
声が消れたあとには、またギターだけが残った。
凪はそのまま最後まで弾いた。
月城の声が止まり、最後の響きだけが部屋へ残る。
二人とも、すぐには動かなかった。
やがて音が消える。
凪は弦から指を離した。
「できたな」
月城が息を吐く。
「できたね」
ローテーブルには二冊のノートが並び、その横に月城のペンが置かれていた。
窓から入る光は、曲を始めた頃より高い位置から部屋へ落ちている。
月城が二冊を重ねた。
「タイトルは?」
凪はギターを抱えたまま窓の外を見る。
朝の白さはもうなく、ガラスの向こうには昼の東京が広がっていた。
「Blue Hourって、夜になる前だろ」
「そうだね」
凪は少し考える。
「じゃあ、その先」
「その先?」
凪は隣を見る。
「夜の向こう側」
月城はしばらく凪を見ていた。
それから重ねたノートを開き、空いていた一番上へペンを置く。
ゆっくり文字が増えていく。
『夜の向こう側』
最後まで書き終えると、月城はノートを少しだけ凪の方へ向けた。
「これでいい?」
凪は書かれた文字を見る。
「これがいい」
月城がペンを置いた。
気がつけば、窓から入る光はすっかり昼のものになっていた。
凪はギターをケースへ戻しながら、空腹を感じる。
朝はコーヒーしか飲んでいない。
「腹減った」
月城が腕時計へ目を落とした。
「もうこんな時間だね」
凪は立ち上がり、朝にも開けた冷蔵庫をもう一度覗いた。
やはり、何もない。
「買いに行くぞ」
「スーパー?」
「そう」
月城もソファから立ち上がる。
「何を作るの?」
凪は冷蔵庫の扉を閉めた。
「お前の好きなハンバーグ」
月城の表情が少し和らぐ。
「それは楽しみだ」
「だろ?」
凪は笑いながら玄関へ向かった。
靴を履く前に、一度だけリビングを振り返る。
ローテーブルには二冊のノートが重なり、その上に月城のペンが置かれている。ギターはもうケースの中だった。
さっきまで音があった部屋には、昼の光が広がっている。
月城が隣で靴を履き、先に扉へ手を掛けた。
廊下へ出ると、白い光が足元まで届いていた。
エレベーターを待つ間、並んだ肩が軽く触れる。
凪はそのままにした。
扉が開く。
月城と一緒に乗り込み、凪は一階のボタンを押した。
夜の向こう側には、いつもの昼があった。
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