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第20話 今の凪
『夜の向こう側』のMVの話が出る少し前、Ridgelineには別件の撮影が入っていた。
その日、スタジオには余計なものがほとんどなかった。暗く落とした背景の前で、組まれた照明だけが三人の輪郭を拾っている。
凪隼人は壁際の椅子に座り、春野遥に髪を整えられていた。
少し離れたところでは青山美咲が全体を見ている。その向こうのソファには、仕事を終えて立ち寄った月城玲士がいた。
『夜の向こう側』の打ち合わせも兼ねているらしい。
凪は鏡越しに一度だけそちらを見る。
月城は手元の資料を開いていたが、視線は時々撮影側へ向いている。
春野が髪から手を離した。
「今くらいがいいですね」
美咲も頷く。
「これ以上やると強すぎます」
「また色気の話?」
「今日は抑える方です」
「意味分かんねぇ」
返事はなかった。
もう二人の中では話が終わっているらしい。
撮影位置では紫月颯が先に立ち、相沢涼もスタッフと短く確認を済ませていた。
桂木有はカメラを持ったまま、凪が立つのを待っている。
「今日、いいですね」
「まだ撮ってねぇだろ」
「撮る前でも分かります」
「そういう自信が腹立つんだよね」
横から相沢が言う。
桂木は気にせずカメラを構えた。
三人が位置につく。
細かい指示は少ない。少し身体の向きを変え、視線を外し、戻す。
撮影が始まってしばらくすると、凪はレンズの位置を考えなくなった。
以前なら、カメラに気づいた瞬間に無意識で視線を逃がしていた。
今はそのまま見返せる。
相沢が何か言い、凪が思わず笑った。
すぐにシャッターが切られる。
「今のいいです」
桂木が画面を確認する。
凪はもう気にせず、次の位置へ戻った。
正面へ身体を向けたところで、桂木の声が飛ぶ。
「そのまま」
凪はレンズを見る。
視線を外さない。
何枚か続けてシャッターが切られた。
少し離れたところで、相沢が言う。
「ほら」
「何」
凪が顔を向ける。
「逃げなくなった」
紫月も一度こちらを見る。
「前は外してたな」
「お前まで言うのかよ」
「見てれば分かる」
凪はまたカメラへ向き直った。
自分では、普通に立っているだけだった。
「色気が事故じゃなくなってます」
後ろから美咲の声が飛ぶ。
「うるせぇ」
「観測結果です」
「観測すんな」
ソファの方から、月城の笑う声がした。
凪はそちらを見る。
「何笑ってんだよ」
「いや。みんな同じところを見ているんだなと思って」
「お前まで参加すんな」
「私は前から知ってるよ」
凪は少し眉を寄せる。
「何を」
月城はそれ以上言わず、手元の資料へ視線を戻した。
その返しが一番腹立たしい。
撮影は予定より早く進んだ。
三人分の確認が一段落すると、相沢がモニターから顔を上げる。
その視線が、ソファの月城へ向いた。
凪はすぐに気づいた。
「やめろよ」
「まだ何も言ってない」
「顔」
相沢は否定しなかった。
「玲士さん」
月城が資料から顔を上げる。
「何?」
「ちょっと立ってみて」
「私が?」
「テスト。『夜の向こう側』用」
月城は少しだけ凪を見る。
「オマケじゃなかったの?」
「今は必要」
「扱いが雑だね」
桂木までカメラを持ち直した。
凪はそちらを見る。
「お前も乗るなよ」
「まだ撮ってません」
「撮る気だろ」
「撮ります」
即答だった。
月城が小さく息を吐く。
結局、確認を通して撮影位置へ入ることになった。
春野が髪を少し整え、ネクタイの位置を見る。
それだけだった。
凪は少し離れた場所から月城を見た。
仕事帰りのスーツ姿も、人前に立っているところも何度も見ている。
壇上でも、会議でも、誰かと話している時でも。
今は違った。
何かを説明するためでも、仕事を進めるためでもない。
ただ見られるために、そこへ立っている。
桂木がカメラを構える。
「月城さん、そのままで」
月城がレンズを見る。
シャッターが切られた。
一枚。
少し位置を変えて、もう一枚。
相沢もモニターを見る。
「普通に強いな」
月城が眉を上げる。
「褒められてる?」
「かなり」
桂木もカメラを下ろさない。
「もう少しください」
凪は黙っていた。
思っていたより、ずっと目を引く。
春野も、美咲も、今は月城を見ている。
自分が知っていたものを、周りが順番に見つけていく。
それが少しだけ気に入らなかった。
月城がこちらを見る。
目が合う。
「どうしたんだい?」
「別に」
「そう?」
少し笑っている。
その顔まで桂木が拾おうとした。
凪はすぐに気づく。
「今の撮んな」
桂木が止まる。
「かなり良かったんですけど」
「知らねぇ」
相沢が振り返った。
「凪」
「なんだよ」
「玲士さんの隣入って」
凪は二人を見る。
「なんで」
「見たいから」
桂木も頷く。
「俺も見たいです」
「お前ら仲良くすんなよ」
「してない」
「してません」
返事だけが重なった。
凪は仕方なく撮影位置へ入った。
月城の隣へ立つ。
近くへ行けば、さっきまで画面の中にいた男がいつもの距離へ戻る。
肩が近い。
横を見なくても分かる。
桂木は細かい位置を直さなかった。
「そのままで」
凪は前を見る。
月城も動かない。
しばらくして、隣から低い声がした。
「機嫌悪い?」
「悪くねぇ」
「そう」
少し笑っている。
それがまた腹立たしい。
シャッターが切られた。
桂木が画面を確認する。
相沢も横から覗いた。
今度は二人とも何も言わなかった。
凪はその沈黙の方が気になった。
「何」
相沢が顔を上げる。
「いや」
「言えよ」
「かなりいい」
桂木も頷く。
「いいです」
「雑だな」
「本当にいい時って、あんまり言うことないんだよね」
相沢はもう一度画面を見る。
隣では月城がまだ少し笑っていた。
凪は前を向いたまま、肩が触れそうな距離から離れなかった。
自分が撮られることは、もう前ほど気にならない。
月城が撮られるのを見ている方が、ずっと面倒だった。
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