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第26話 近くていい
アトラボ五階のスタジオで、凪隼人はギターを膝に乗せていた。
『夜の向こう側』は、月城玲士の声を残したまま、今日は自分のギターだけを録り直す。
「どこ変えんの」
紫月颯が聞いた。
「まだ決めてない」
「は?」
「弾けば分かる」
紫月が振り返る。
「一番面倒なやつ来たな」
「うるせぇ」
凪はヘッドホンを掛けた。
曲が始まる。
聞き慣れたイントロのあと、月城の声が入る少し前で弦へ指を置いた。
以前なら、そこでさらに場所を空けていた。
声が入るところを広く残せば、月城の声はきれいに前へ出る。前の音が悪かったとは思っていない。
それでも、今日は同じようには弾かなかった。
最初のフレーズを入れる。
月城の声が来ても、前ほど大きく退かない。ぶつかるほど近づけず、声のすぐ横へギターを残したまま進んでいく。
その距離で、最後まで弾いた。
音が消えると、凪はヘッドホンを片方だけ外した。
「どう」
紫月は答えず、最初から聞き直す。
凪も黙って聞いた。
前の音より、ギターは明らかに近い。
月城の声が一人で前へ出る場所は減っている。それでも窮屈には聞こえなかった。
「前より近いな」
紫月が言った。
「うん」
「意図的?」
凪は少し考える。
「たぶん」
「たぶんばっかだな」
凪はヘッドホンを外した。
「悪い?」
「別に」
紫月はサビの手前をもう一度流した。
月城の声が少し落ちるところでも、ギターは消えずに残っている。
「ここ、前はもっと引いてた」
「知ってる」
「今回は残した」
「うん」
紫月が凪を見る。
「何で」
凪はすぐには答えなかった。
山梨の制作部屋が浮かぶ。
古いアンプも、Blue HourのCDも、写真に残っていた若い月城も見た。
けれど、それと張り合いたいわけではない。
月城の声が入るからといって、自分まで遠くへ退く必要もなかった。
「離れなくていいと思ったから」
紫月はそれ以上聞かなかった。
「じゃあ、もう一回」
「まだやんの?」
「今の、ちょっと固い」
「面倒くせぇ」
「仕事だろ」
「俺、お前の専属じゃねぇんだけど」
「知ってる」
凪はまたヘッドホンを掛けた。
二度目は、前ほど考えなかった。
月城の声が入れば、その近くへギターを置く。息が入るところだけ少し空け、過ぎればまた戻る。
ただ、離れすぎない。
そのまま最後まで弾いた。
音が消えると、紫月はすぐに再生した。
今度は途中で止めない。
凪も黙って聞く。
最後まで流れたところで、紫月が腕を組んだ。
「もう触んな」
凪がそちらを見る。
「何で」
「今のでいい」
「ほんと?」
「珍しく」
「失礼だな」
「褒めてる」
「どこが」
紫月は答えなかった。
凪は自分でもう一度、最初から聞いた。
前より近い。
それでも月城の声は狭くなっていない。ギターも前へ出すぎず、二つの音がそのまま同じ方向へ進んでいく。
最後まで聞いても、もう引っかからなかった。
「これで出す」
紫月が短く頷く。
「じゃあ閉じるぞ」
「うん」
凪はスマートフォンを取った。
《録り直した》
少しして既読がつく。
《聴ける?》
《今送る》
音を送った。
返事を待つ間、凪はギターをケースへ戻した。
紫月が横から言う。
「本人呼べばよかったじゃん」
「仕事だろ」
「お前も仕事」
「俺は今ここ」
「意味分かんねぇ」
凪は無視した。
やがてスマートフォンが震える。
《前より近いね》
凪は画面を見た。
少し笑う。
《近くていい》
すぐに返事が来る。
《うん。私もそう思う》
凪はしばらくその文字を見て、スマートフォンをポケットへ入れた。
紫月がこちらを見る。
「決まった?」
「決まった」
「やっとか」
「うるせぇ」
凪はギターケースを持ち上げた。
スタジオを出る時、もう一度だけ今の音が頭の中を通った。
月城の声のすぐ近くに、ギターが残っていた。
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