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第29話 俺の外で笑うな

『夜の向こう側』を公開してから一週間。 最初の数日ほどの騒がしさは落ち着き、残った反応が少しずつ具体的になっていた。 朝、アトラボ四階の会議室で、凪隼人は名取圭吾から一枚の資料を渡された。 「何これ」 「問い合わせです」 「俺?」 「半分は」 凪は紙をめくる。 音楽媒体、配信番組、インタビュー、撮影。二人で話してほしいものもあれば、凪だけを希望するものもある。 その下で指が止まった。 月城玲士単独インタビュー。 月城玲士ポートレート撮影。 「何でこいつ単独あんの」 「反応があったからでしょうね」 「断って」 「僕が決めることではないです」 「じゃあ誰」 「VERTEXと月城さんです」 凪は資料を机へ置いた。 「嫌なんですか」 「別に」 「そうですか」 絶対に信じていない顔だった。 もう一度紙を見る。 月城の歌やBlue Hour時代について。その下には、 《月城玲士さんの人物像を中心とした撮影企画》 とある。 「人物像って何」 「人物像でしょうね」 「分かんねぇ」 凪は少し迷ってから資料を返した。 * 午後、五階のスタジオでギターを触っていると、スマートフォンが震えた。 月城からだった。 《今日、少し遅くなる》 《取材?》 少しして返事が来る。 《どうして知ってるの》 《名取》 《ああ》 凪は迷ってから送った。 《単独のやつ受けるの?》 《まだ決めてないよ》 《断れば》 しばらくして、 《隼人》 《何》 《妬いてる?》 凪は文字を見たまま眉を寄せた。 《うるせぇ》 スマートフォンを伏せる。 * 夕方、四階へ降りたところで月城を見つけた。 今日は濃い色のシャツにジャケットだった。 それだけで少し機嫌が悪くなる。 「何その服」 月城が振り返る。 「仕事着」 「いつもと違う」 「このあと一件あるからね」 「取材?」 「打ち合わせ」 「誰と」 月城が少し笑う。 「取り調べかい?」 「答えろよ」 「VERTEXの広報と媒体側」 近くで見ると、髪もいつもより整っている。 「これで行くの」 「そうだけど」 「撮られんの?」 「今日は打ち合わせだけ」 「じゃあ何でそんなちゃんとしてんだよ」 月城の目が細くなる。 「隼人。私は普段からちゃんとしてるよ」 「そういう意味じゃねぇ」 エレベーターが来る。 月城が乗り込み、凪も続いた。 「君、五階に戻るんじゃなかった?」 「四階」 「用事ある?」 「今できた」 月城が笑う。 扉が閉まった。 「単独、受けんの」 「まだ分からないよ」 「断れば」 「どうして」 「嫌だから」 月城は少し黙った。 「私が一人で仕事するのは嫌?」 「仕事はいい」 「じゃあ何が嫌なの」 凪は眉を寄せた。 「見せるために撮られんのが嫌」 月城がこちらを見る。 「仕事してるお前が勝手に写るのはいい。『夜の向こう側』も俺が一緒だったからいい。でも、お前だけ撮って、顔とか雰囲気とか見せるために出すのは嫌」 月城は少し視線を落とした。 「分かった」 「断る?」 「それは別」 「は?」 扉が開き、月城が先に廊下へ出る。 「仕事として必要かどうかは、ちゃんと考えるよ」 「じゃあ俺が嫌でも?」 月城が足を止めた。 「嫌だと言ったことは覚えておく」 「それだけ?」 「じゃあ、どうしてほしい?」 凪は黙った。 仕事をやめてほしいわけではない。閉じ込めたいわけでもない。 「……帰ったら考える」 「宿題?」 「笑うな」 会議室前まで来る。 月城がドアへ手を掛ける前に、凪は袖を掴んだ。 「玲士」 「何?」 「今日、何時終わる」 「八時前には」 「俺んち来て」 月城の視線が少し変わる。 「分かった」 「絶対」 「行くよ」 そこで凪は手を離した。 * 八時を少し過ぎた頃、月城は約束通り凪の部屋へ来た。 玄関を開け、何も言わず中へ入れる。 「夕飯は?」 「ある」 「よかった」 「その前に」 月城が振り返ったところへ距離を詰め、ジャケットを掴んで壁際へ押した。 「隼人?」 「昼の続き」 そのまま口づける。 軽く触れるつもりはなかった。 月城の背中が壁へ触れる。凪は襟元を掴んだまま、逃がすように距離を空けなかった。 一度離れた唇へ、今度は月城の方から触れてくる。 背中へ回った腕が、ゆっくり凪を引き寄せた。 近づいた身体の間に、ほとんど隙間がなくなる。 凪は月城の首元へ手を回した。 昼間から、知らない誰かの前へこの人が出ていくことばかり考えていた。 今は、自分の腕の中にいる。 月城の唇が頬へずれ、そのまま耳の下へ触れる。 凪の呼吸がわずかに乱れた。 「……玲士」 呼ぶと、月城の動きが少しだけ止まる。 「何?」 返事は近かった。 凪は答えず、もう一度自分から唇を重ねた。 今度はさっきより深くなる。 月城の指が背中を辿り、腰へ回る。 凪はその手を止めなかった。 ようやく離れた時には、どちらの呼吸も少し崩れていた。 月城の額が近くに残る。 「……宿題の答え、出た?」 凪は月城の胸元へ手を置いたまま、顔を上げる。 「出た」 「聞いていい?」 「仕事は勝手にしろ」 「うん」 凪はジャケットを掴み直した。 「でも」 もう一度引き寄せる。 「俺の外で、そんな顔して笑うな」 月城が少し黙る。 「そんな顔って?」 「今の」 「今、どんな顔してる?」 「知らねぇよ」 月城が笑った。 その顔がまた腹立たしくて、凪はすぐに口づけた。 月城の笑いが唇の近くで消える。 「それ」 離れたところで言う。 「それ、外でやんな」 月城は凪を見たまま、自分から距離を詰めた。 「難しい注文だね」 「何で」 「君がいる時しか、たぶんしてないから」 凪の手が止まる。 月城の指が頬へ触れ、そのまま耳の後ろへ滑った。 「それなら大丈夫?」 凪は少し黙った。 「……まあ」 「よかった」 「でも撮影は嫌」 「まだ言うんだ」 「言う」 月城が笑う。 今度は凪も止めなかった。 月城の首へ腕を回し、その笑いごと近くへ引き寄せた。

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