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第33話 夜を走る音

高級車ブランドからCMの話が来たのは、『夜の向こう側』についての取材記事が出てから数日後だった。 凪隼人はアトラボ四階の会議室で、名取圭吾から渡された企画書を見ていた。 表紙には、夜の都市を走る黒い車。ガラス張りのビル、高架の灯り、濡れた路面へ伸びる光。 速さより、静かな強さを見せたい企画らしい。 「車?」 「はい」 「俺が?」 「はい」 「何で」 名取が困った顔をする。 「そこからですか」 凪は企画書をめくった。 衣装はスーツ寄り。夜の街で車のそばに立ち、運転席へ入り、最後は車から降りる。 正直、嫌いではない。 ページを送ったところで指が止まった。 使用楽曲候補。 『夜の向こう側』。 ピアノ主体のインストゥルメンタル。原曲の空気を残しながら音数を抑え、映像を前へ出す。 「玲士の声なし?」 「はい」 「ピアノ指定?」 「先方からです」 月城の声がなくなり、自分だけが画面へ出る。 その形が妙に引っかかった。 「で、何で相沢?」 「今回のMVを作ったのが相沢さんなので。曲と映像の両方を分かっていて、ピアノでも組める人ということでAurora側から出しました」 「本人には?」 「昨日、絵コンテと演出プランを渡しました」 凪は顔を上げた。 「もう作ってる?」 名取は間を置いた。 「たぶん」 妙に諦めた返事だった。 「どこいる?」 「五階だと思います」 立ち上がる凪を、名取が呼び止める。 「まだ正式受諾前ですからね。完成させないでくださいとは言ったんですが」 「遅かった?」 「たぶん」 * 五階へ上がると、相沢涼はスタジオの奥でピアノに座っていた。 聞き慣れた旋律のはずなのに、最初は『夜の向こう側』だと分からなかった。 原曲より低いところから始まり、音数も少ない。 月城の声が入っていた場所では全部を埋めず、その先へだけピアノを置いていく。 ギターで作った曲が、夜を走る車へ合う形に変わっていた。 それでも途中で、ちゃんと『夜の向こう側』へ戻ってくる。 最後の音が落ちる。 「もう作ったのかよ?」 相沢が振り返った。 「うん。好きな曲だから速攻でできた」 「お前ムカつくな」 「ありがとう」 凪はピアノの近くへ行った。 上にはタブレットが置かれ、地下駐車場から夜の街へ出る車、高架、信号、運転席へ入る人物が並んでいる。 十五秒、三十秒、六十秒。 「全部作った?」 「骨だけ。映像来たら直す」 相沢が三十秒版を弾き始めた。 車が地上へ出るところで低い一音が落ち、高架へ入ると逆に音が減る。 「何でそこで引くの」 「画面が強いから。音まで前に出したら、全部強くなる」 ブランドロゴが出るところで、『夜の向こう側』の旋律だけがはっきり残った。 「これ、もう出来てんじゃん」 「まだ変わるよ。撮ったの来てから」 続く六十秒版はさらに静かだった。 原曲を全部は使わず、月城の声が入っていた場所にも無理に何かを足していない。 空いている。 それでも欠けては聞こえなかった。 「玲士いないのに、玲士残ってんな」 相沢の指が止まる。 「うん」 「どうやってんの」 「元の曲がそうだから」 相沢は鍵盤へ指を戻した。 「凪のギターだけの曲じゃないでしょ。月城さんの声が入ってた場所を全部ピアノで埋めたら、別の曲になる」 低い音が一つ落ちる。 「いないところも残した方が、『夜の向こう側』になる」 凪はタブレットを見る。 月城の声そのものはない。 それでも、そこに声があったことまでは消えていなかった。 「お前、やっぱムカつくな」 「ありがとう」 「褒めてねぇ」 凪は企画書をタブレットの横へ置いた。 黒い車。夜の街。スーツ姿の自分。 そこへ、このピアノが入る。 「先方、ピアノってよく分かったな」 「方向は合ってると思う」 「ギターじゃなくて?」 「ギターでもできる。でも車も夜景も強いところに凪のギターまで入ったら、音まで全部凪になる」 「駄目なの?」 「駄目じゃない。でも重い。ピアノなら距離ができて、画面の凪が残る」 凪は企画書へ目を落とした。 「色気も出ると思う」 「色気って何だよ」 「見たまま」 凪はとうとう笑った。 「ほんとムカつく」 「そう?」 「そうだよ」 相沢は気にした様子もなく、鍵盤へ視線を戻した。 凪はもう一度、今のピアノを聞く。 何を足すかより、どこを空けるかが先に決まっている。 「相沢」 「何」 「これ、お前が弾くんだよな」 「うん」 「そのままがいい」 相沢がこちらを見る。 「ピアノ?」 「うん。お前の方が合ってる」 「分かった」 月城の声がなくなった『夜の向こう側』に、相沢のピアノが入る。 画面に残るのは、自分一人になる。 「玲士、これ見たら何て言うかな」 「聞けば?」 「まだ言ってねぇ」 「決まってから?」 「そう」 相沢はそれ以上聞かず、また鍵盤へ視線を戻した。 凪はスタジオを出る前に振り返る。 まだ映像にはなっていない夜の街を、相沢のピアノだけが先に走っていた。

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