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第34話 夜に置く

撮影は、日が落ちてから始まった。 都内のスタジオで衣装を整えたあと、凪隼人は黒い車と一緒に夜の街へ出た。 濃い色のスーツに、シャツは襟元まで固く締めない。アクセサリーも最低限だった。 車そのものが強いので、余計なものはいらないらしい。 最初に見せられた絵コンテは頭に入っていた。 地下駐車場から夜の道路へ出て、高架を走る。運転席の横顔と、最後に車を降りるところまで。 細かい指示は監督が出し、凪は必要な位置へ立った。 以前なら、カメラの前でどこまで自分を出せばいいのか考えたかもしれない。 今はもう、撮られていること自体に引っかからない。 歩けと言われれば歩く。振り返れと言われれば振り返る。 車へ手を掛け、シートへ座り、窓の向こうへ流れる街を見る。 夜の高架へ入った頃には、撮影車の光も気にならなくなっていた。 「凪さん、次、もう少し視線遅くもらえますか」 「はい」 同じ場面をもう一度撮る。 今度はすぐに顔を上げず、フロントガラスへ落ちる街の光を見てから視線を動かした。 「今のいいです」 監督の声が飛び、スタッフが次の準備へ動き始めた。 離れたところでは、名取圭吾と相沢涼がモニターを見ている。 凪は車から降り、そのまま二人の方へ歩いた。 「どう」 名取が答えるより先に、相沢が画面を見たまま言う。 「いいと思う」 凪も横からモニターを覗いた。 さっき撮ったばかりの自分が、黒い車の横へ立っている。 背景はほとんど夜に沈み、高架の灯りが車体を走ってから、遅れて凪の横顔へ落ちる。 思っていたより静かな画だった。 「これ、ピアノ乗せんの?」 「うん」 「合う?」 「撮る前より合う」 凪が相沢を見る。 「何それ」 「思ったより凪が動かないから」 「動けって言われてねぇもん」 「それがいい」 相沢はモニターを数秒戻した。 「ここ、音いらないかも」 「前は入ってた?」 「一個あった」 「消す?」 「うん」 相沢は手元のノートPCを操作し、用意していた仮音源からその一音を外した。 もう一度、さっきの映像が流れる。 夜の車体へ光だけが滑り、凪の手がドアへ触れる。 そのあとで初めてピアノが入った。 凪は黙った。 「こっち」 「うん」 「今のは分かった」 「よかった」 相沢が画面を止める。 「やっぱり撮ってから変わるな」 「骨だったんだろ」 「うん」 凪は笑った。 「ちゃんと骨だったな」 「嘘つかないよ」 次の撮影へ呼ばれ、凪はまた車へ戻った。 そこからは早かった。 走行カットと車内の横顔を撮り、最後に地上の駐車スペースで車から降りる。 夜が深くなるほど、街の灯りは減っていった。 最後のカットで、凪は車を降りたあと、すぐには歩かなかった。 一度だけ振り返る。 監督から言われたわけではない。 なんとなく、そうした方がいいと思った。 「カット」 間を置いて、監督が言った。 「今の、最後に使いたいです」 凪は振り返る。 「勝手にやったけど」 「だからいいです」 離れたところで相沢も笑っていた。 「何」 「色気」 「まだ言う?」 「見たまま」 凪は眉を寄せる。 「ムカつく」 「ありがとう」 すっかり定着していた。 撮影が終わったのは、かなり遅い時間だった。 * 翌日、仮編集が上がった。 凪は五階の確認室で、相沢と一緒に最初の三十秒版を見る。 絵コンテで見ていたものとは、もう別物だった。 黒い車が地下から地上へ出て、夜の道路へ入る。 運転席で前を見る凪の顔を、信号の光がかすめる。 車から降り、最後に振り返る。 そこへ相沢のピアノが乗った。 音数はさらに減っている。 月城の声があった場所を無理に埋めず、原曲の輪郭だけを残していた。 それでも『夜の向こう側』だと分かる。 凪は画面から目を離さなかった。 「……玲士いねぇな」 「うん」 「でも曲は二人のまま」 「うん」 画面には凪しかいない。 月城の声もない。 それでも、声があった場所までは消えていなかった。 最後の振り返りで、ピアノが一度だけ止まる。 ブランドロゴが出る直前に、原曲の旋律が短く戻った。 「ここ、昨日と違う」 「変えた」 「何で」 「凪が振り返ったから」 「俺のせい?」 「凪のおかげ」 相沢は画面を戻す。 「この間なら、音ない方がいい」 もう一度流れる。 凪が振り返り、ピアノが消える。 夜の中に短い空白ができ、そのあとで最後の旋律が入った。 「……これいい」 「俺もそう思う」 相沢は保存した。 凪は椅子へ背を預ける。 三十秒しかない。 それでも、自分で見ても妙に目が離れなかった。 「これ、俺こんな感じなんだ」 「どんな感じ」 「知らねぇ」 「色気」 「言うと思った」 相沢が笑った。 凪はスマートフォンを取り出す。 月城には、CMが正式に決まったことも、撮影を終えたことも伝えてある。 映像はまだ見せていない。 迷ってから打った。 《仮できた》 すぐには返事が来ない。 仕事中なのだろう。 凪はスマートフォンを伏せた。 「玲士さん?」 相沢が聞く。 「うん」 「見せるの?」 「完成したら」 「じゃあ何送ったの」 「できたってだけ」 「何で」 凪は考えてから答えた。 「言いたかったから」 相沢はそれ以上聞かなかった。 しばらくして、スマートフォンが震える。 《楽しみにしてる》 凪はその一文を見たまま、もう一度モニターへ目を向けた。

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