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第35話 少しだけ

CMは、十二月の半ばに公開された。 テレビより先に、ブランドの公式サイトと動画広告へ出た。黒い車が夜の街を走り、相沢のピアノがその背後に残る。その中にいるのは凪隼人だけだった。 三十秒の映像は、公開から数時間で予想以上に広がった。車そのものへの反応に混ざって、凪の名前が増えていく。 《凪隼人、車似合いすぎ》 《スーツやばい》 《横顔だけで一本見られる》 《この人こんな色気あった?》 《運転席の凪強い》 《最後の振り返り何》 凪は最初のうちだけ見て、途中で閉じた。 自分が見られることには、もうそれほど驚かない。仕事で撮られれば誰かが見る。それくらいは分かっている。 ただ、相沢が言っていた意味は分かった。 ピアノが引いている分、映像の中では自分だけが前へ出ている。『夜の向こう側』なのに月城の声はなく、画面にもいない。その代わりに、凪だけが残っていた。 公開当日の夜、月城から短いメッセージが来た。 《見たよ》 凪はすぐに返した。 《どう》 待っていると、 《似合ってる》 と来た。 思った通りだった。 《それだけ?》 今度は返事が遅い。 《何を期待してるの》 凪は笑って、《別に》と返した。 そこから月城は何も言わなかった。 翌日も、その次の日もCMは流れ続けた。駅のデジタル広告に出て、動画の切り抜きが回り、ブランドの公式アカウントには撮影写真が追加された。 凪は仕事の合間に一度だけ覗いた。 車へ寄りかかる自分。運転席で横を向く自分。暗いスーツのまま、街の光を受けている自分。 コメント欄は、前よりひどかった。 《写真の方も強い》 《手まで格好いいの何》 《こんな男に抱かれたい》 《これ起用した人天才》 そこまで見て閉じた。 * その夜、月城が家へ来た。 いつもより遅い時間だった。玄関を開けると、コートのまま立っている月城の顔には疲れがあったが、機嫌が悪いようには見えない。 「おかえり」 「ただいま」 もう自然にそう返ってくる。 凪は月城のコートを受け取り、リビングへ入った。夕食は簡単に済ませられるものを作ってある。 月城が席につき、凪の出したスープを飲む。 「忙しかった?」 「少しね」 「CM見た?」 月城の手が止まった。 「見たよ」 「昨日も聞いた」 「じゃあ何でまた聞くの」 「何回見た?」 月城が凪を見る。 「何回だと思う?」 「知らねぇから聞いてんの」 「結構」 「結構って?」 「数えてないよ」 凪は笑った。 「何でそんな見てんの」 月城は答えず、またスープへ視線を戻した。 その横顔を見ているうちに、凪には何となく分かってきた。 「玲士」 「何?」 「反応も見た?」 今度は返事が遅れた。 「見たよ」 「どこまで」 「こんな男に抱かれたいあたりまで」 凪は吹き出しそうになる。 「何その言い方」 「そのままだよ」 「別に俺が悪いわけじゃねぇだろ」 「分かってる」 月城の声はいつもと変わらない。 それでも、スマートフォンはテーブルの端へ伏せたまま置かれていた。 凪はそこへ目をやった。 「玲士」 「だから何」 「妬いてんの?」 月城がようやくこちらを見る。 否定すると思っていた。 「少しね」 凪の手が止まった。 「……ほんとに?」 「聞いたのは君だろう」 凪は箸を置いた。 「もっと否定するかと思った」 「私もそう思ってたよ」 月城は静かに言った。 「君が見られる仕事をしてることくらい、ずっと知ってたから。ライブもあるし、写真も出る。雑誌にも載る」 「うん」 「今さら何も思わないと思ってた」 息を吐く。 「違ったね」 凪は黙った。 少し前まで、自分が同じことをしていた。 「何が嫌?」 月城は考えてから答えた。 「君が格好いいこと」 「は?」 「正確には、それを他の人が知ることかな」 凪は笑った。 「同じじゃん」 「何が」 「俺と」 月城の目が細くなる。 凪は椅子を寄せ、月城の腕へ触れた。 「分かった?」 「何を」 「俺抜きで歌うの嫌って言ったの」 月城は凪の手を見て、それから顔を上げる。 「少し分かったよ」 「少しかよ」 「かなり、とは言いたくないね」 「何で」 「悔しいから」 凪は声を立てて笑った。 月城が眉を寄せる。 「笑うところ?」 「玲士が悔しいとか言うから」 「私にもあるよ、それくらい」 月城が凪を見る。 「隼人、嬉しそうだね」 「嬉しい」 凪は即答した。 月城が黙る。 「何」 「君は本当に隠さないね」 「今さらだろ」 凪は月城の手を取った。 「でも俺、別に誰かのものになんねぇよ」 月城の目がこちらへ向く。 「知ってる」 「じゃあいいだろ」 「それとこれとは別なんだろう?」 凪は黙った。 自分が何度も言ってきたことだった。 「……そうだった」 「でしょう」 月城の指が、凪の手を握り返す。 凪はそのまま身を寄せた。 「じゃあ俺も、お前が見つかんの少しくらい我慢する」 「少しくらい?」 「お互い様」 月城が笑う。 「それなら、私も少しくらいは我慢しようかな」 「少しかよ」 「君と同じくらい」 「俺、全然できてねぇけど」 「知ってる」 近くで月城が笑った。 凪も、その手を離さなかった。

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