5 / 24

4

 クロエは椅子に座り直すと、部屋を見回し再びアウレスに視線を向けた。 「顔を見る、と言う点では。しかし別の興味が湧いた」  クロエは口角をほんの少し上げると、アウレスの腹をなぞるように撫でた。薄く細いその腹はクロエの両手に収まりそうなほどだ。 「お前のこの体、いつからだ?」  アウレスはその質問に頭が真っ白になった。腹部に置かれた手の平の感触から、過去の忌まわしい記憶がじくじくと全身に甦る。  使い古した油のような匂いが鼻腔を満たす。シワだらけの額から流れる汗が自分の頬や首に流れ落ちてくる。濁った瞳は欲に濡れている。分厚くざらざらした手のひらがアウレスに触れるたび、黄ばんだ不揃いな歯が顔を覗かせる。  どれも胸の奥底に沈めたはずだったのに、一度静止画として蘇った記憶は一瞬にして動きはじめ、感情、匂い、そのときの息苦しさまでもをアウレスに思い出させた。    座っているはずのベッドは消え、見慣れた室内も隣にいたはずの男も消えた。代わりに錆びた鉄格子があり、背中に小石が当たる感触がある。世界から色が抜け、アウレスの体が冷たくなる。  アウレスの肩に誰かの手が触れる。払い退けたくても恐怖と絶望で頭がいっぱいになり、体が言うことを聞かない。息ができない。 「アウレス」  遠くから名前を呼ぶ声がする。聞こえないように両手で耳を塞いだ。頬に冷たい感触があり、自分が泣いていることにようやく気がつく。足を折り曲げ、顔を埋める。小さくなってしまえば、誰からも見えなくるかもしれない。一、二、三と心の中で数を数える。 「アウレス」  声が変わった。聞き慣れた声ではない。声は何度もアウレスの名前を呼ぶ。耳を塞いでもそれは聞こえ近づいてくる。 「今、落ち着かせてやる」  背中にぬくもりを感じ力が抜けた。そのぬくもりが全身を回ると、アウレスを支配していた記憶が消えていき、同時に呼吸が楽になる。世界が色を取り戻し、アウレスの体に熱が戻る。 「落ち着いたか」 「……ああ」  顔を上げると目の前にはクロエの顔があった。どうやら自分はこの男に抱きしめられているらしいとわかり、アウレスはどうするべきか困った。今すぐこの腕から逃れるべきなのに、まだもう少し抱きしめられていたいと思っている。そんな自分の感情に戸惑いを覚えた。   「……お前の魔法か?」 「私の使える魔法の種類は魔王よりも多い」  魔王の息子が回復・治癒系の魔法を使えるとは、想像もしなかったことだ。 「それより、今のはなんだ」 「……お前が気にすることじゃない」  人間のトラウマなど魔族に理解できるはずがない。言いかけてアウレスは言葉を飲み込んだ。 「それは困る。お前の体に触れるだけであのようなことになってはな」 「お前も俺の体に興味があるのか」  誰もが息を呑むほど美しいアウレスの容姿は、ほど近い年齢の女だけでなく、親子ほど歳の離れた男たちをも魅了する。  アウレスは常に人の視線を集め、またその者たちを狂わせてきた。善良だけが取り柄の気のいい男を、神のために生きることを誓った聖職者を、魔王討伐を志した友を狂わせた。  そんな彼の体が世界でも例を見ない特異体質ともなれば、なおのことだ。

ともだちにシェアしよう!