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第2話 忘れさせてあげる

洗面所に。 俺の歯ブラシが増えていた。 「……何これ」 後ろから奏真が覗く。 「澪の」 「見れば分かる」 「毎回持ってくるの面倒だろ」 「勝手に置くなよ」 「コップもある」 「増やすな!」 見ると。 本当にある。 俺の分。 色まで違う。 「あと、着替えも少し置けるように空けた」 「何でそこまで進んでんだよ!」 奏真が笑う。 「澪が泊まりやすいように」 「……」 「便利だろ?」 そこを言われると弱い。 実際。 便利だ。 「……まあ」 「よかった」 それだけで。 ものすごく嬉しそうな顔をする。 何なんだ。 俺の歯ブラシ一本で。 **** 最近。 奏真の家に来ると、帰りたくなくなる。 困る。 本当に。 ソファで映画を見ていても。 俺が飲み物を取ろうとすれば、 「何飲む?」 と先に立つ。 少し寒いと思ったら、言う前にブランケットを掛けられる。 「過保護」 「澪に?」 「俺以外に誰がいる」 「なら合ってる」 「認めんな」 奏真が笑う。 そのまま。 俺の足を自分の膝の上へ乗せる。 「何してんの」 「楽にしてて」 「お前がやりたいだけだろ」 「うん」 また即答。 「俺、澪を甘やかすの好きなんだよね」 「何その趣味」 「かなり楽しい」 「俺で遊ぶな」 「遊んでない」 奏真が俺を見る。 「幸せにしてる」 真顔で言う。 こういうところだ。 冗談みたいな会話だったのに。 最後だけ。 急に。 胸の真ん中へ入ってくる。 「……恥ずかしいこと言うな」 「本当だから」 俺はブランケットを少し上げて、口元を隠した。 奏真が笑う。 幸せだった。 たぶん。 俺が思っていたより。 ずっと。 **** 奏真が風呂へ入ったあと。 テーブルに置いた端末が震えた。 画面を見て。 胸が冷える。 あの当局からだった。 俺は寝室へ移動して、通信をつなぐ。 「……雨宮です」 『進展は』 いきなりだった。 「ありません」 『本当に?』 「変な連絡もありません。会ってる人も普通です。少なくとも、俺が見てる範囲では――」 言いながら。 苦しくなる。 何だよ。 俺が見てる範囲って。 恋人なのに。 『資金の話は』 「聞けませんよ」 『なぜ』 「いきなり百億何に使ったなんて聞いたら、おかしいでしょう」 『あなたは最も近い人間です』 「だからって……」 声が強くなる。 「何もないんです。奏真は普通に仕事して、普通に帰ってきて、それで……」 俺といる。 俺を甘やかして。 笑ってる。 そこまでは言えなかった。 『もういい』 「……え?」 『こちらで判断する。対象端末のデータだけ送ってください』 嫌な感じがした。 「待ってください。まだ何も――」 『確認はこちらでする』 「でも」 『データを』 一方的に通信が切れた。 しばらく。 画面を見つめる。 百億。 テロ組織。 データ。 全部。 嫌な言葉ばかり。 奏真を信じている。 でも。 もし。 本当に何かあったら。 「澪?」 びくっとした。 振り返る。 奏真が寝室の入口に立っていた。 髪が少し濡れている。 「何してたの?」 「……何でもない」 端末を伏せた。 奏真の目が、一瞬だけそこへ向く。 それから。 俺を見る。 「でも、心配そうな顔してる」 「そうかな」 笑ってみる。 たぶん。 全然うまく笑えていない。 奏真は少しだけ俺を見つめた。 でも。 何も聞かなかった。 ふっと笑う。 「ふふ。かわいい」 「は?」 「俺の天使」 「天使って言うな!」 思わず言い返す。 奏真がまた笑った。 それだけで。 部屋の空気が戻った。 「……何だよ」 「笑った」 「お前が変なこと言うからだろ」 「うん。それでいい」 「何が」 奏真は答えなかった。 ただ。 俺の頭を軽く撫でた。 それ以上。 端末のことは聞かなかった。 **** ベッドに入ってからも。 さっきの通信が頭に残っていた。 データ。 送らなきゃいけない。 でも。 送りたくない。 何もないはずなのに。 嫌な予感だけが消えない。 「澪」 「……何」 「何考えてる?」 「仕事」 「今?」 「悪いかよ」 奏真が少し笑う。 それから。 耳元で。 「じゃあ、忘れさせてあげる」 心臓が跳ねた。 「……簡単に言うな」 「できると思う」 「自信満々だな」 「澪のことだから」 キス。 最初は軽く。 唇が離れる。 もう一度。 今度は長い。 奏真の手が背中を撫でる。 服の中へ。 肌に触れる。 「冷たい?」 「少し」 「じゃあ温める」 「そういう言い方……」 首筋へ唇が触れて。 言葉が止まった。 「澪」 「ん」 「かわいい」 「今は言うな」 「今だから言いたい」 「ほんと……」 胸元へ触れられる。 弱いところを指先でなぞられて。 「あっ♡、ちょ……」 思わず身体が跳ねた。 奏真が笑う。 「そこ?」 「聞くな」 「好きなんだ」 「言わせんな」 また。 同じところ。 今度はゆっくり。 「まって……んっ♡、そこ」 声が勝手に甘くなる。 恥ずかしい。 でも。 もうさっきの通信は少し遠い。 「奏真」 「うん」 「……近い」 「もっと近くなるけど」 「バカ」 キスされる。 そのまま。 身体を慣らされていく。 急がず。 何度も。 「澪」 「……ん」 「力抜いて」 「分かってる」 分かってるのに。 奏真に触られるたびに。 身体が勝手に反応する。 「っ……あ♡」 「大丈夫?」 「……びっくりしただけ」 「じゃあ続ける」 「聞いた意味ある?」 「澪の声聞きたかった」 「最悪」 「好き」 また。 胸が熱くなる。 「……俺も」 これは普通に言えた。 まだ。 ちゃんと考えられる。 本部。 データ。 あとで。 あとでちゃんと―― 「澪」 「何」 「こっち見て」 目が合う。 「今、俺以外のこと考えてる」 ぎくっとする。 「……悪い?」 奏真が少しだけ笑った。 「じゃあ本当に忘れさせないとな」 「っ、おい――」 身体が重なる。 ゆっくり。 受け入れた瞬間。 「っ……」 息が止まる。 「澪」 「待って……ちょっと」 奏真は止まる。 背中を撫でられる。 何度か呼吸を整える。 「……もういい」 「うん」 少しずつ。 動き始める。 最初は浅く。 ゆっくり。 内側を擦られるたびに。 考えていたことが。 少しずつ。 途切れる。 「奏真……」 「ここにいる」 「分かってる」 まだ話せる。 でも。 「っ、あ♡、そこ」 急に当たって。 肩へしがみついた。 「ここ?」 「だから聞くな……」 もう一度。 「んっ♡、まって」 「待つ?」 「……違う」 自分で言ってから。 顔が熱くなる。 奏真が嬉しそうにする。 「じゃあ続ける」 「その顔やめろ」 「無理」 だんだん。 深くなる。 擦れる場所も。 熱も。 変わっていく。 「澪」 「ん……」 「好き」 「……うん」 「澪は?」 まだ。 普通に答えようと思った。 でも。 奥へ届いて。 「あっ♡、奏真……!」 声が崩れた。 「澪」 「今……聞くな」 「聞きたい」 本当に。 欲張り。 「……好き」 一度。 普通に。 それから。 また奥へ触れられて。 「好き♡」 今度は。 止められず。 甘くなった。 奏真が笑う。 「俺も」 「もう……満足した?」 「全然」 「欲張り……」 動きが少し強くなる。 「まって……っ♡、ちょっと激しい」 「やめる?」 「違うって……」 もう。 自分でも何を言ってるのか分からない。 本部。 データ。 さっきまで。 あんなに気になっていたのに。 どこへ行った。 「奏真……」 「うん」 「そこ、また……っ♡」 「ここ?」 「そう……♡」 思わず答えてしまった。 恥ずかしい。 でも。 それより。 気持ちいい。 「澪」 「んっ♡」 「何考えてる?」 何を。 考えてたっけ。 少し前まで。 仕事。 何か。 大事なこと。 でも。 「……奏真」 それしか出なかった。 奏真が嬉しそうに笑う。 「うん」 「お前……ずるい」 「忘れた?」 「……知らない」 また深く。 「っ、あ♡」 しがみつく。 もう。 どうでもいい。 「奏真……」 「ここにいる」 「もっと……♡」 自分から言った。 今度は。 ちゃんと。 甘く誘うつもりで。 奏真の目が変わる。 「それ言われたら止まれない」 「……止まらなくていい♡」 言ってしまった。 そこから。 本当に。 何も考えられなくなった。 「奏真……っ」 「うん」 「だ、ダメ……」 奥まで届く。 「っ、あ♡、そこ……もう……」 限界。 「澪」 「いくっ♡」 頭の中が。 真っ白になった。 **** 気づけば。 奏真の胸にくっついていた。 髪を撫でられている。 呼吸も。 もう落ち着いている。 「澪」 「……何」 「幸せ?」 少し考える。 でも。 答えはすぐだった。 「……幸せ」 奏真が笑う。 その顔を見て。 俺も笑った。 「ほんとに忘れた」 「何を?」 一瞬。 胸の奥がざわつく。 本部。 データ。 思い出す。 でも。 奏真の指が髪を梳く。 「……何でもない」 俺から。 もう少しだけ近づく。 奏真は何も聞かず。 嬉しそうに抱き直した。 その夜。 データを送らなきゃいけないことを。 俺はもう一度。 忘れた。

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