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1章❶.会いにきてくれた恋人。セックスはしたいが自分の声が気になる
──9月4日(金)つまりプロローグの前夜/亜紀視点
『これから新宿に戻る。そのあと、おまえのアパートに行っていいか』
春彦からの電話。ニューヨークから成田空港に着いたばかりの。
「……いや、別にいいけど、明日でも……疲れてるでしょ」
LINEメッセージではなく、いきなりかかってきた電話に少々戸惑いつつ。
『疲れてない』
部屋の時計を見る。午後8時。まあ、早い時間ではないが問題はない。終電はもっと先。
亜紀はぐるぐる考えた。今日これから春彦がここに来るとして、そうすると「話しちゃいけないこと」を話さないように過ごさなくてはいけない。
いちばんのトピックスはそれのはず。恋人に言えない「秘密」ができてしまったこと。
しかし。
久しぶりに会えるのは、めちゃくちゃ嬉しい
会いたいと思ってくれるのも、びっくりするくらい嬉しい
そういう自分の心理に動揺している。恋人同士になって以来、「あんまりハマらないようにしないといかん」ということにすごく、すっごく気をつけているけれど、意識すればするほどハマってしまっているようで、すごく怖い。
来てくれたら、セックスはしたい。ただ、問題がある。この部屋の壁が春彦の部屋ほど厚くない。どうにも、あのときの自分の声が気になる。
実は、まだ最後まできちんと致したのは片手で数えられる程度だが(原因の半分は忙しくて会えなかったせいだけれど、もう半分は春彦が『最後まではそんなに頻繁にやっていいことじゃない、自分の身体を大事にしろ』と言うので)、毎回自分を抑えることができていない。
『……亜紀?』
電話の声で我に返る。
「あ、うん、それなら、いいよ。春彦さえ平気ならね。気を付けて来な」
『やった』
「でもうち、なにもないよ。なんか買っておこうか? 食べ物とか酒とか」
『いらない。まあ、適当に買っていくよ。俺は亜紀に会いたいだけだし』
「……うっ」
『う?』
なんでもない、とにかくあとでね、と言って電話を切る。
自分らしくなく、ずきゅんとしてしまう。胸にクる。海外出張帰り。春彦は上層部とともにニューヨークの名立たる企業をいくつか回っている。疲れていないわけがない。なのにここまで来ると言う。自分に会いたいから、それだけの理由で。すごく素直、すごく直球だ。
ハマらないなんで無理なのでは……? 加えて、あのベッドでのテクニック……。
思い出すだけで下半身が重くなる。
「いやあああ……わあ! いやいや! えっと、少し片づけなどしましょう!」
掃除機! と思ったが、そんなのを使える時間帯ではなかった。亜紀は特に散らかってもいない部屋を見回すと、ソファに置きっぱなしだった本を本棚に戻し、アルコールのウエットティッシュでローテーブルを丁寧に拭いた。
ベッドもチェックしたものの(ここの間取りは1DKで、ダイニングキッチンはひとり暮らしにしては広め)、「あんた、ベッドメイクが趣味なの?」と姉につっこまれたことがあるだけあって、自分でも感心するほどぴしっと整っている。だって、そのほうが寝るときに気持ちいいじゃんよ。
ほかにやることはない。なにか料理を作っておいてやろうと思ったが、やめた。いらないと言われたのだ、いらない。やりすぎ禁物。
春彦は思いのほか早くやってきた。コンビニのレジ袋以外には、大きめのスポーツバッグ。そのなかから「今回は酒を見て回る時間がなかったが、これはかなり美味かった」と、チョコレートの箱を取り出した。カフェで食べて、お土産用もあったから買ったんだ、と、肩で息をしながら。
「……そんなに急がなくても」
結構大きな、赤くて平べったい箱を受け取りながら言う。
「急いでない」と春彦。「……いや、まあ、急いだけど、成田からちょうどいいバスもあったし、終電を逃すと困ると思って」
「終電はあと2時間くらい先だよ。平日だし」
「……なら、正直に言っちゃっていいのか?」
「だめ。言わなくていい。シャワー、どうぞ」
「ん。お借りします」
向かい合って話し続けるのがひどく恥ずかしくて、「こっち」と、とりあえず洗面所のドアを開ける。案内するほどここは広くないけど、実は春彦がここに泊まるのは初めてなので。
「なあ、そのパジャマ、新しく買ったやつ?」と、春彦。
薄いブルーの、さらさらした生地が気に入って買ったパジャマ。これもムーミンシリーズと同じで全体に柄はなくて、ポケットからちょっぴり顔を出している黒猫の刺繍。長袖と長ズボン。
「そう。最近やっとちょっと夜は涼しくなってくれたから。暑い日はTシャツと短パンに戻るけど、でもこれかなり涼しめで。真冬は無理かも」
「可愛い。ん、猫じゃないよ。猫もまあまあ可愛いけど、主に……おまえが」
自分を見つめる眼。久しぶりだからなのか、なんというか、威力が強い。思わず息を呑んでしまいそうになる。だけど、生唾なんか飲んだのがバレた日にはこちらの心理が透けて見えすぎてしまうので、なんとかそれは耐えた。
「……あの。先にお断りをしておきたいんだけど」
そうだ、言っておいたほうがいい。自分のためにも。
「なに」
「今日は、ヤんないので。その、ここ、壁薄いから。君のおうちとはわけが違うし」
壁一枚を挟んで両方に住民がいる。さっきから多少の物音も聴こえてくるし、在宅だ。
「ああ、そんなのは。構わないよ。俺は亜紀に会いたかっただけだし」
「……うう」
「うう、ってなんだよ。疑ってる? それに、体力がそこまで残ってないんで。おまえの隣で眠れたら、それで」
「すみません……」
亜紀には、自覚がある。あのときの自分の声が、けっこうデカいことに。
どうにも、どーーーうにも耐えられないのだ。ぎりぎりまで我慢するけれど、限界を超えたあたりでなかなかのボリュームで喚いている気がしている。いや、わけがわからなくなっているので春彦がどう考えているのかは知らないし、そこまで話したことはないが。
「なので、溜まってたらだけど、ヌくならヌいてきてネ。汚してもいいから」
「さすがにそれは。気にしてくれてありがとう」
春彦はぽんぽんと亜紀の頭に手を乗せると、バッグからジャージや下着を引っ張り出して洗面所に入った。春彦のマンションのように広い洗面所はないからスポーツバッグを持ち込むと邪魔だし、あれこれを全部足元のカゴに入れることになる。
春彦が急いだ理由。早く自分に会いたいからだ。そんなの、わかる。
マズい。久しぶりだからか、ひどく目を合わせにくい。セックスなんかしたら、さらにマズい気がする。きっと、静かにふたりでさわやかに寝るくらいで、ちょうどいい。
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