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1章❷.セックスはだめだけど、キスは
しばらくすると、「ドライヤーがない、どこ?」と春彦がバスルームから出てきた。濡れた髪をタオルで拭きながら。いつものことだが濡髪がまた、非常にイイ感じである。
亜紀は慌てて手にしていたクイックルワイパー(本日3度目)を元の位置に戻すと、「わあ、ごめん、こっちにある」と言った。パイプベッドの下のカゴのなかだ。
「洗面所、狭いし暑いからさ。こっちで使うようになっちゃってて」
「なるほど」
「ここ座って。乾かすから」と、ベッドを指さした。
「……うん……うん?」
亜紀はなにげなく言ったが、春彦がほんのり動揺している。
「うん? ──あっ、自分でやる? ほら、春彦の家だと春彦がやってくれるじゃん。それで、なんか……」
なんか、なんなのか。
「じゃあ、そうだね。甘えようかな」
春彦がベッドに腰かけた。亜紀はいつも通りドライヤーの電源をコンセントに差し込み、春彦の前に立った。
「ん、普通後ろからか?」
「いや、気にしなくていいよ。よろしくお願いします」
そう言われて、スイッチを入れる。顔や目には熱風が当たらないようにして、髪を乾かしていく。乾かしてもらうことはあってもその逆はなかったので、新鮮だ。春彦はいつも「いつの間にか」自分の髪を乾かし終えていて、亜紀の髪を乾かすことに集中するので。
堂々とこの金色の髪に触れられる。それは、いまのところ(エミリアや乙彦を除けば)自分だけなのだなと思ったりする。さらりとしていて、でも、とてもコシのある髪。形のいい耳。長い睫毛。どう見ても一般的な日本人より高い鼻に、少し厚い唇。情熱的な。
「観察してるだろ」と、目線をこちらにやりもしないまま春彦が言う。バレている。
「……してないですよ。はい、おわり」
スイッチを切って、コードをまとめてから元の場所にしまう。それから、一緒に置いてあったヘアバームを取り出した。いい香りがするし、ハンドクリームにもなるから便利だ。
「これ、ちょっとつけとこう。寝癖がつきにくくなって気に入ってるんだよね。ほんのちょっとでいいんだ」
少量を手に取り、手のひらを合わせて温め、伸ばしやすくする。いつもの柑橘系の香りで、ほんのちょっとだけ緊張感がほぐれた。
緊張? どうしてこんなに緊張しているんだろう。
「亜紀に触っていい?」
髪に手を伸ばしたところで、春彦が言った。こちらを見ないまま。
「そんなの勝手に……俺だっていま君に触ってたでしょ」
手のひらにわずかに残ったバームを、自分の手の甲にまで広げつつ。
「なんでも合意を取っておきたいんだよ」と春彦。「なんでもだ、一方的にはしたくない」
「なにそれ……そこまで気にしてくれなくてもいいんだけど」
「いい?」
「……いい。えっと、どこに」
「このあたり」
腰の片方だけに手が当てられる。というか、この男の手の大きさからすると「腰を掴まれる」という感じになるが。薄着なだけに、すごく熱が伝わってくる。
春彦はそうしつつ、ふう、と安堵と捉えてもよさそうな溜息をついた。
「いいな、やっぱり。近くにいるっていうのは」
「まあ……海外ってのは遠かったね」
「そういうことでもないんだが」
「え?」
思わず春彦の顔を見つめると、彼は「気にしないでいい」と薄く微笑んだ。
こういうときだ。小さな諦めのようなものを、この男から感じるとき。付き合い始めたばかりのころに比べれば徐々に減ってはいるが、まだ、ある。
──自分が想うほどには想われていない、それを願うのは贅沢なことだ
たぶんだけど、そんなふうに考えているんじゃないかなと思う。そんなことはない、と言ってやりたい。事実、ハマりかけてる自覚があるのだから。でも、セーブしようとしているのも事実。そのあたりが亜紀自身にも腑に落ちていなくて、まだ「完全に迷いがない」とも言えないのだ。
ふさわしさで言えば、心寧さんのほうが……そんなふうに思ってしまう。
それはそれとして。
それはそれとしてだ、この男の悩ましげな顔はひどくクるものがある。亜紀は自分の胸のあたりから「きゅん」という音が出てしまっていないか、リアルの心配になった。海外だろうと国内だろうと、新宿と立川だろうと、一緒にいなければ遠いのだ。
もう一度、春彦の髪に触れる。さらさらと零れる髪。いつもとは逆転した位置。この男を見下ろす機会は、そんなにはない。見上げられて、瞳に映る自分をこれほどはっきり見ることもない。
気付けば、唇を重ねていた。
自分が腰をかがめるのは珍しいな、など、脳内は別のところにあった。だから、気付けば。
反応から春彦が驚いたのはわかったが、当然彼は拒否などしない。差し入れた舌を静かに迎え入れて、腰に当てた手はそのまま亜紀の身体を支えてくれている。
やっと、亜紀から顔を離したあと。
「……キスはしていいのか」
「キスはダメなんて言ってないでしょ」
「でもな。やめられなくなりそうなんだよ」
少しばかり困った顔で微笑む恋人。
──亜紀が感じたのは、小さな苛立ち。「やめなきゃいいじゃん」と言う自分。
「じゃあ、君はやめとけば。なんにもしなきゃいい。俺はするし」
不合理なことを言っている自覚はある。「それはダメでしょ」とまともなことを言う自分もちゃんとあとからやってくる。なのに、うまく感情をまとめられない。
「ふうん。なかなか難易度の高いことを言うね」
春彦は特に困っていない。逆に、瞳がきらきらしてきた気がする。……いや、きらきらというか、ギラギラ?
「できるだろ、春彦なんだから」
「……試してみないとわからないな」
「動くなよ」
深い口付けを続けながら、圧し掛かった自分の重みで春彦をベッドに押し倒す。尻にがっつり当たってくる春彦の陰茎を、尻の中央でさらに押す。布越しだし、まさかこのまま入ってしまうことはないが、あまりにも硬いからアブナイ感覚になる。少しは入っちゃうんじゃないかと思ってしまう。
「──きょう、は」
今日は俺が口で……と言おうとしたところで、目の前がぐるんと回転し、天井と男の顔が見えた。表情と呼吸からして、さっきまでの余裕はなさそうだった。
「いい加減にしろ」と、真上から。「おまえはいったいどうしたいんだ。言えよ」
言葉は荒めだが、ささやくように言う。
「なんだよ。こわ」と、心にもないことを言う。
怖いはずはない。怖いのは、いまいち理解できない今の自分の心境だ。
新たに見えるこの男の表情が、嬉しくてしょうがない。
なんだろう? 俺は、なぜいまこんなにもいつものペースを失っているんだろう? 心寧の顔が浮かぶ。邪魔だよ、心寧さん。
「亜紀……言えって。なんでもしてやるから」
耳の奥を舐めるような声。ぞくぞくしてしまう。
「……じゃあ、指、入れて」
「…………」
「そのくらいだったら、声、我慢できるから」
「……わかった。ゴムとか、ある?」
「ベッドの下。ドライヤーのカゴの隣にある箱。タオルも入ってる。ローションも」
「準備……してくれてるのか」
している。でも、こういうときのためだけではない。亜紀が普段から使っているものだから。もちろん、誰かを抱くためではなく。
「そりゃね」
春彦はすぐにはそれらを取ろうとせず、もう一度ゆったりと口付けをしてから、亜紀の首に触れた。それから、肩、腕、手と手を絡めてから、今度は胸。そこは時間をかけて。
「……は、る」
普段よりもさらに丁寧な触れ方。
そうしながらも、春彦がなにか疑問に思っているのは伝わってくるが、彼はそれを訊いてこない。さらに時間をかけて撫でられ、さわられて、パジャマと下着を脱がされたころには痛いくらいに勃起していた。そこも、やわやわと触れられる。待ち遠しくて、早くしろと言ってしまうところだった。
やっと、指が入ってくる。
「本当だね。前よりは入りやすい。でも、ちゃんと力を抜けよ。痛いには痛いだろ、さすがに」
「……へーき、……っ、あ」
身体も頭も期待しすぎてしまっていたものだから、入ってきたものを喜んで受け入れてしまっている。指くらいで(いや、春彦の指は結構太いんですが)目の前がちかちかする。マズい、とは思うけれど、腰が動く。おとなしくしてくれていない。声は漏れてしまう。
「こうすると……気持ちいい?」
同じ場所を擦られる。もう無駄口は叩けない。ただただ頷くしかなかった。うるさいな、黙ってろ。そういう感じで首を振ってもいいが、イヤだと受け止められたら困る。つまり、やめられたら困る。やめてほしくない。
「亜紀……口でしようか? 出したらすっきりするだろ。そうしたら、もう寝ろ」
指が引き抜かれたのがわかる。その小さな衝動だけでイってしまうかと思った。
今度は首を振る。
「んん、……でもな……」
「──いれて」
「……ん?」と、春彦が怪訝な顔をした。「確認するが、なにを」
ばかなの? いま入れるものってほかにないでしょ。いつもなら、そのあたりのことを言う。
だけどだめだ。もう、無理。
腕を伸ばして、相手を気遣うばかりの恋人の頭を抱きしめる。
「亜紀?」
「……会いたかった」
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