3 / 5

1章❷.セックスはだめだけど、キスは

しばらくすると、「ドライヤーがない、どこ?」と春彦がバスルームから出てきた。濡れた髪をタオルで拭きながら。いつものことだが濡髪がまた、非常にイイ感じである。 亜紀は慌てて手にしていたクイックルワイパー(本日3度目)を元の位置に戻すと、「わあ、ごめん、こっちにある」と言った。パイプベッドの下のカゴのなかだ。 「洗面所、狭いし暑いからさ。こっちで使うようになっちゃってて」 「なるほど」 「ここ座って。乾かすから」と、ベッドを指さした。 「……うん……うん?」 亜紀はなにげなく言ったが、春彦がほんのり動揺している。 「うん? ──あっ、自分でやる? ほら、春彦の家だと春彦がやってくれるじゃん。それで、なんか……」 なんか、なんなのか。 「じゃあ、そうだね。甘えようかな」 春彦がベッドに腰かけた。亜紀はいつも通りドライヤーの電源をコンセントに差し込み、春彦の前に立った。 「ん、普通後ろからか?」 「いや、気にしなくていいよ。よろしくお願いします」 そう言われて、スイッチを入れる。顔や目には熱風が当たらないようにして、髪を乾かしていく。乾かしてもらうことはあってもその逆はなかったので、新鮮だ。春彦はいつも「いつの間にか」自分の髪を乾かし終えていて、亜紀の髪を乾かすことに集中するので。 堂々とこの金色の髪に触れられる。それは、いまのところ(エミリアや乙彦を除けば)自分だけなのだなと思ったりする。さらりとしていて、でも、とてもコシのある髪。形のいい耳。長い睫毛。どう見ても一般的な日本人より高い鼻に、少し厚い唇。情熱的な。 「観察してるだろ」と、目線をこちらにやりもしないまま春彦が言う。バレている。 「……してないですよ。はい、おわり」 スイッチを切って、コードをまとめてから元の場所にしまう。それから、一緒に置いてあったヘアバームを取り出した。いい香りがするし、ハンドクリームにもなるから便利だ。 「これ、ちょっとつけとこう。寝癖がつきにくくなって気に入ってるんだよね。ほんのちょっとでいいんだ」 少量を手に取り、手のひらを合わせて温め、伸ばしやすくする。いつもの柑橘系の香りで、ほんのちょっとだけ緊張感がほぐれた。 緊張? どうしてこんなに緊張しているんだろう。 「亜紀に触っていい?」 髪に手を伸ばしたところで、春彦が言った。こちらを見ないまま。 「そんなの勝手に……俺だっていま君に触ってたでしょ」 手のひらにわずかに残ったバームを、自分の手の甲にまで広げつつ。 「なんでも合意を取っておきたいんだよ」と春彦。「なんでもだ、一方的にはしたくない」 「なにそれ……そこまで気にしてくれなくてもいいんだけど」 「いい?」 「……いい。えっと、どこに」 「このあたり」 腰の片方だけに手が当てられる。というか、この男の手の大きさからすると「腰を掴まれる」という感じになるが。薄着なだけに、すごく熱が伝わってくる。 春彦はそうしつつ、ふう、と安堵と捉えてもよさそうな溜息をついた。 「いいな、やっぱり。近くにいるっていうのは」 「まあ……海外ってのは遠かったね」 「そういうことでもないんだが」 「え?」 思わず春彦の顔を見つめると、彼は「気にしないでいい」と薄く微笑んだ。 こういうときだ。小さな諦めのようなものを、この男から感じるとき。付き合い始めたばかりのころに比べれば徐々に減ってはいるが、まだ、ある。 ──自分が想うほどには想われていない、それを願うのは贅沢なことだ たぶんだけど、そんなふうに考えているんじゃないかなと思う。そんなことはない、と言ってやりたい。事実、ハマりかけてる自覚があるのだから。でも、セーブしようとしているのも事実。そのあたりが亜紀自身にも腑に落ちていなくて、まだ「完全に迷いがない」とも言えないのだ。 ふさわしさで言えば、心寧さんのほうが……そんなふうに思ってしまう。 それはそれとして。 それはそれとしてだ、この男の悩ましげな顔はひどくクるものがある。亜紀は自分の胸のあたりから「きゅん」という音が出てしまっていないか、リアルの心配になった。海外だろうと国内だろうと、新宿と立川だろうと、一緒にいなければ遠いのだ。 もう一度、春彦の髪に触れる。さらさらと零れる髪。いつもとは逆転した位置。この男を見下ろす機会は、そんなにはない。見上げられて、瞳に映る自分をこれほどはっきり見ることもない。 気付けば、唇を重ねていた。 自分が腰をかがめるのは珍しいな、など、脳内は別のところにあった。だから、気付けば。 反応から春彦が驚いたのはわかったが、当然彼は拒否などしない。差し入れた舌を静かに迎え入れて、腰に当てた手はそのまま亜紀の身体を支えてくれている。 やっと、亜紀から顔を離したあと。 「……キスはしていいのか」 「キスはダメなんて言ってないでしょ」 「でもな。やめられなくなりそうなんだよ」 少しばかり困った顔で微笑む恋人。 ──亜紀が感じたのは、小さな苛立ち。「やめなきゃいいじゃん」と言う自分。 「じゃあ、君はやめとけば。なんにもしなきゃいい。俺はするし」 不合理なことを言っている自覚はある。「それはダメでしょ」とまともなことを言う自分もちゃんとあとからやってくる。なのに、うまく感情をまとめられない。 「ふうん。なかなか難易度の高いことを言うね」 春彦は特に困っていない。逆に、瞳がきらきらしてきた気がする。……いや、きらきらというか、ギラギラ? 「できるだろ、春彦なんだから」 「……試してみないとわからないな」 「動くなよ」 深い口付けを続けながら、圧し掛かった自分の重みで春彦をベッドに押し倒す。尻にがっつり当たってくる春彦の陰茎を、尻の中央でさらに押す。布越しだし、まさかこのまま入ってしまうことはないが、あまりにも硬いからアブナイ感覚になる。少しは入っちゃうんじゃないかと思ってしまう。 「──きょう、は」 今日は俺が口で……と言おうとしたところで、目の前がぐるんと回転し、天井と男の顔が見えた。表情と呼吸からして、さっきまでの余裕はなさそうだった。 「いい加減にしろ」と、真上から。「おまえはいったいどうしたいんだ。言えよ」 言葉は荒めだが、ささやくように言う。 「なんだよ。こわ」と、心にもないことを言う。 怖いはずはない。怖いのは、いまいち理解できない今の自分の心境だ。 新たに見えるこの男の表情が、嬉しくてしょうがない。 なんだろう? 俺は、なぜいまこんなにもいつものペースを失っているんだろう? 心寧の顔が浮かぶ。邪魔だよ、心寧さん。 「亜紀……言えって。なんでもしてやるから」 耳の奥を舐めるような声。ぞくぞくしてしまう。 「……じゃあ、指、入れて」 「…………」 「そのくらいだったら、声、我慢できるから」 「……わかった。ゴムとか、ある?」 「ベッドの下。ドライヤーのカゴの隣にある箱。タオルも入ってる。ローションも」 「準備……してくれてるのか」 している。でも、こういうときのためだけではない。亜紀が普段から使っているものだから。もちろん、誰かを抱くためではなく。 「そりゃね」 春彦はすぐにはそれらを取ろうとせず、もう一度ゆったりと口付けをしてから、亜紀の首に触れた。それから、肩、腕、手と手を絡めてから、今度は胸。そこは時間をかけて。 「……は、る」 普段よりもさらに丁寧な触れ方。 そうしながらも、春彦がなにか疑問に思っているのは伝わってくるが、彼はそれを訊いてこない。さらに時間をかけて撫でられ、さわられて、パジャマと下着を脱がされたころには痛いくらいに勃起していた。そこも、やわやわと触れられる。待ち遠しくて、早くしろと言ってしまうところだった。 やっと、指が入ってくる。 「本当だね。前よりは入りやすい。でも、ちゃんと力を抜けよ。痛いには痛いだろ、さすがに」 「……へーき、……っ、あ」 身体も頭も期待しすぎてしまっていたものだから、入ってきたものを喜んで受け入れてしまっている。指くらいで(いや、春彦の指は結構太いんですが)目の前がちかちかする。マズい、とは思うけれど、腰が動く。おとなしくしてくれていない。声は漏れてしまう。 「こうすると……気持ちいい?」 同じ場所を擦られる。もう無駄口は叩けない。ただただ頷くしかなかった。うるさいな、黙ってろ。そういう感じで首を振ってもいいが、イヤだと受け止められたら困る。つまり、やめられたら困る。やめてほしくない。 「亜紀……口でしようか? 出したらすっきりするだろ。そうしたら、もう寝ろ」 指が引き抜かれたのがわかる。その小さな衝動だけでイってしまうかと思った。 今度は首を振る。 「んん、……でもな……」 「──いれて」 「……ん?」と、春彦が怪訝な顔をした。「確認するが、なにを」 ばかなの? いま入れるものってほかにないでしょ。いつもなら、そのあたりのことを言う。 だけどだめだ。もう、無理。 腕を伸ばして、相手を気遣うばかりの恋人の頭を抱きしめる。 「亜紀?」 「……会いたかった」

ともだちにシェアしよう!