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2章②.佳代さんと話す(「正式な彼氏」と言えるシーンが嬉しい)
いきなり名前を呼ばれた。しかも呼び捨てだった。
「……え?」
知り合い? だが、まったく覚えがない。目尻や首筋のシワからまあまあな年齢だとはわかるが、レンズの奥に見える女性の眼はきりっとしていて、整った顔立ちをしている。春彦は関心がない相手の顔をまったく覚えられない人間だが、これ系は一度会ったら忘れないタイプに属する。うまく説明できないが、顔から性格がわかるようなタイプ、ということか?
「やだ、ごめんなさい。でも春彦……さんよね? 亜紀ちゃんの彼氏の」
おわ。(※これは喜びの「おわ」である)
「彼氏……はい、そうです。亜紀の正式な彼氏ですね」
つい、胸を張って言ってしまった。なにせ、赤の他人にこのような言い方ができたのは、後にも先にも初めてだったので。会社ではさすがに公表していない。こそこそしたくはないが、要らぬ関心を集めるのもイヤなので。
「うふふ。やっぱり」
「亜紀がお世話になっている方ですか? ……ん? あ……?」
ひとりだけ。ひとりだけ、思い出した。もともと顔は知らない。話したこともない。けれど、亜紀が言っていた「大家さん」だとすると。
「もしかして、『佳代さん』?」
「そうそう。正解。聞いたことある?」
「あります」
あまり留守が続くと心配する、とも。普通の大家さんとはちょっと関係が違いそうだったが、あのときは主題ではなかったために深く追求しないでいた。
「よかったわ。ただの怪しいおばあちゃんになるところだった。春彦……さんは亜紀ちゃんから聞いていたとおりっていうか、写真も見せてもらってたの」
「はは。あの、いいですよ、春彦で。(取って付けた)さんは不要です」
「やだ。ごめんなさいね」と、佳代さん。慌てた様子で「亜紀ちゃんと話すときはそう呼んでるものだから」と弁解した。
「わかりますよ。仲良しなんですね」
亜紀を「アキ」と呼び捨てしまくる自分の姪と甥のことなども思い出しつつ。
「すごく仲良しなのよ。亜紀ちゃんは二葉と一沙とも仲良くしてくれていて。あっ、私の孫ね。孫たちも割とイケメンなんだけど、リアル春彦を見ちゃうとな……まあ、春彦ほどじゃないけど、イケメンだよ。今風なの」
亜紀ちゃんが仲良くしてくれてるフタバとカズサ。完全な初耳である。根掘り葉掘り聞き出したいところだ。我慢できない。
「佳代さんもお孫さんたちも、お近くにお住まいで?」
「ええ。ずっとね。孫たちはあっちのほうで家具屋をやってる。私がタダで貸してるテナントで、のんびり。代々木にもお店があるけど、だいたいこっちにいるわね」
だいたいこっちにいる。なる、ほど。それはチェックが必要かもしれない。
こんなふうに話はしているが、佳代さんはまたさっき見ていたあたりを気にしはじめて、なんだか落ち着かないでいる。
「ところで、どうかしましたか? 気になることでも」
「……うん。ねえ、申し訳ないんだけど、あのあたりの草とか、あのへんの壁とかを見てみてくれない?」
佳代さんが指さす先には、確かに草と壁がある。普通の。
「草とか壁とか?」
「うん。だらしなく見えない?」
とりあえず見てみる。ただ見るのでなく、「不動産を見る眼」で見てほしいのだろう。大家さんだし。とはいえ、注視すべき点はないように思われる。
「いや……定期的に除草されている感じがしますし、壁も別に。古くはあるかもしれないですが、最近塗り直したのかな? いい感じですが」
「ありがとう。そっか。そう……なのかなあ」
納得している様子ではない。春彦は続けて言ってみた。
「私は亜紀と同じ会社に勤めていて、不動産関連の部署との繋がりもあります。専門家ではありませんが、まったくの素人でもない。そういう目で見てみても、かなりしっかりと管理されているように思いますよ」
ひび割れの補修の跡が綺麗だし、外壁の塗装にも艶が残っている。ついでに言うと、雨どい、共用灯、ゴミ置き場まで手入れされているのがわかるし、植え込みも丁寧に剪定されている。その場を収めるための嘘ではない。公平に見て、特段問題がある不動産には思えない。
「なら安心した。春彦が言うなら信じるわ。……はあ。もう、こういうのやめたい」
突然の告白。少なくともいま会ったばかりの他人にすることでもない。
「やめたい……というと、こういう管理のお仕事を?」
「うん。亡くなった夫の仕事だからがんばって続けてきたけど、私は管理を続けるには神経質すぎるのよ。そろそろ自分のおうちの庭だけを丁寧にお世話したい」
「……なるほど。やってみたら疲れちゃったってことですかね。失礼ですが、旦那さんが亡くなったのは最近ですか?」
「20年前ね。けっこう年上だったんだけど、幸薄そうな顔のわりには生きたわ」
「ぶっ」
笑っていいの、これ? という内容だが、佳代さんはあっけらかんとしている。なるほど、亜紀が好きそうなタイプのご婦人だ。──ん? 20年?
「あの……20年も不動産の管理を続けていらっしゃったんですか?」
想像よりさらに昔からだった。「やってみたら疲れちゃった」と表現するには長すぎる。
「うん。こういうアパートは7棟ね」
「あとは、お孫さんに貸してるようなテナントとかも?」
「そう。全部で5つ。立川市とお隣の昭島市内、3つくらいの通りにばらばらとあるの」
「かなりの規模だ。おひとりで?」
「ええ。税金のこともあるから会社にはしてるけど、基本はひとり。税理士のお友達に相談しながらね。でも本当に、基本的には夫がやっていたことをそのままやってるだけなの」
「それが維持できているというのは素晴らしいことです」
おそらく佳代さんは、入居者対応や家賃回収などの日常業務は管理会社に委託しつつも、完全に任せきりにする、といったことができずに抱え込んでいるのだろう。委託先の判断や報告も細かく確認して、いまみたいに物件の様子を自分の目で見に行っている。それこそ、夫の現役時代にはもっと多くの業務を自分たちで回していたのかもしれない。「昔ながらの大家さん」だ。それを長く続けてきたなら、いまさら手を抜けと言われても難しい。神経質なら特に。家を借りる側としては、とてつもなくいい大家と言えるけれど。
きちんとやりすぎたために、終わらせ方がわからなくなったひと。
「……もう少し詳しくお話をうかがってもいいですか。お力になれることがありそうです」
興味が湧いた。少なくとも、恋人がお世話になっている相手だ。
でも、それだけではなくて。
「うん。ごめんなさいね。でも、ただの愚痴になるかも」
「そうなったらそれでもかまいませんよ。あ、キャラメル・ラテなどはお好きですか? これ、いくらか冷めてしまっていますが」
「大好きよ。いいの? 亜紀ちゃんのぶんじゃないの?」
「亜紀には紅茶もありますので」
2階を見上げたが、窓の向こうで亜紀が動いている様子はない。窓もカーテンも閉じたままだ。
そこで、春彦はできるだけ質問をまとめて、効率的に佳代さんから情報を引き出した。失礼にならないように、かつ、彼女の希望はしっかりと網羅できるように。立ち話なので、30分以内だ。
そしてその最後に、彼女が言ったこと。
「亜紀ちゃん、私がこのアパートの大家さんをやめちゃったら、がっかりしないかなあ」
「というと?」
「管理する人が変わると、住み心地や家賃も変わっちゃうかもしれないよ。そういうことで迷惑をかけたくないの。亜紀ちゃんだけじゃないんだけど、特に亜紀ちゃんに。すごくお世話になったんだよね。草むしりしてくれたこともあるし、私が熱中症で倒れたときはお買い物もしてくれて」
「なるほど。亜紀のことを気にしてくださっているんですね。お優しい。でも、それとこれは別でいいんですよ。大家業はビジネスです」
「クールになれないのね。孫にもそう言われてるんだけど」
たぶんこのポイントだ、と春彦は思った。やめたくてもやめられない大きな理由。肩の荷を下ろしたくても簡単には下ろせなくなっている。しかも、彼女はかなりのやり手だ。やろうと思えばできてしまうが、それに体力と気力が追い付かなくなっている。確かに引き際なのだろう。
春彦は財布から自分の名刺を出して渡し、連絡先の交換をした。佳代さんはLINEも普通に使っていたので、「友だち」にもなった。
「必ずご連絡します」
「ありがたいわ。それから、あのさ……このこと、亜紀ちゃんにはもうしばらく……」
「言いません」
「秘密を持っちゃうことになるけど。恋人なのに」
「大丈夫。このくらいで信頼を失う関係ではないと思ってるから」
「惚気た!」
「惚気ましたね」
佳代さんはほっとしたように微笑んで、「亜紀ちゃんが春彦のおうちに引っ越すなら、いちばん安心なんだけどな」と言った。春彦はその言葉もそっと摘み取って、脳内の「重要度【高】」のフォルダに入れた。
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