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3章❶.心寧のプロジェクト、森口レイラは本当にクセのある女性だった
──9月5日(土)春彦がブルー・リーフにいる間の回想/亜紀視点
ぼんやりした視界のなかに、春彦の姿はなかった。
「はるひこ……?」
自分の声の掠れ具合に驚く。それ以外は変わらない。この部屋の風景も、いつもの空気の匂いも。
いまだに、春彦と寝ると……いや、ここは正しく表現しよう。「春彦に抱かれると」、それが現実なのかどうかの確認が必要になってしまう。あの男に溺愛されていることが信じられない。あの男の体温や声や、指先や……「アレ」も、もちろん全部含めて、いまは自分が独占してしまっていることが、嘘みたいだ。
ふわふわとした感覚を引きずったまま、洗面所に行く。当然のように整えられた、自分の姿。身体はべたついていないし、パジャマはしっかりと着ている。けれど、鎖骨のあたりに吸われた跡があって、やっと夢ではないのだと思える。それを皮切りに……
「わあ……わあああああ……」
昨晩の記憶が、怒涛のようにあふれだした。
間違いなく、全部現実だ。昨晩の熱は、この身体にしっかりと残っている。
思わず両手で顔を覆う。あと一歩で。ほんのあと一押しで、普通に「愛してる」とか言うところだった。それを、かろうじて「会いたかった」に置き換えただけなのだ。
「いや……おかしいでしょ、ただ恋人やってるだけなのに……」
なんでこんなに現実味がない? なにかが違う。いままでと違いすぎる。
いやそりゃね? 抱かれる側になったのは初めてだけどね? それにしてもですよ……。
「仕事してるとマシなんですけどね……」
ぶんぶん首を振ってから、とりあえずシャワーを浴びた。軽く髪を乾かしてからキッチンでごくごくと水を飲み、さあ動こうと思ったのに、またベッドに舞い戻ってしまった。身体を動かすには、頭のなかが忙しすぎる。そんなとき、このベッドの居心地はよすぎる。
亜紀は、春彦に言えないでいることについて、またぐるぐると考え始めた。
†
亜紀が抱えている「秘密」の発端は、3日ほど前に遡る。春彦が海外出張に出てから一週間ほど過ぎたころだ。デスクの内線に着信があって、出たら緒方専務だった。
『あっちにいるおまえの上司には、クロスで頼みたいことがあるって話だけはしてあるからさ。結構急ぎなんで助けてやってくれないか』
緒方は「おつかれさん」の次にはもう用件を切り出した。これは「クロス」の話だとすぐにわかる。彼は他部署の仕事に手を貸せ、と言っているのだ。
「どの部署ですか?」
『ウエディング部だよ。明後日の午後に打ち合わせを設定してあるから、詳しく聞いてくれ。別に無理だったらことわりゃいいんだ。とりあえず、話を聞くだけ聞いてやってくれるか』
変な頼み方だ、と亜紀は思った。この社でそういうことはわりとあって、それ自体は変じゃない。通称「部署クロス」。ただ、そうではなくて、そこにただの担当者ではない「誰か」がいるような。
ウエディング部門が立ち上がったのは、かなり最近のことだ。ロナルド社長が進めた株式会社リュミエールの事業再編に際し、婚礼部門の一部と、いくつかの会場運営に関わる権利を譲り受けるかたちで発足している。この会社の本業であるレストランシステムの開発と管理サービスからは少々離れているが、もちろん無縁というわけではない。「医薬品を開発する」とか言い出すのに比べたら、まあ普通だ。亜紀はあとから緒方とロナルドが懇意であることを知ったから、余計納得した。
つまり、「そのあたり」の人物。あの研修で、リュミエール社と絡んでもいたひと。
「……もしかして、心寧さん、ですか」
訊いてしまうのが早い。訊いてみた。
『おう? よくわかったな』
「……はい、まあ、そんな気がして」
『心寧が外部ディレクターだ。おまえら、結構仲良しなんだろ? いいかな』
「承知しました」
いいもなにも、亜紀はこの段階で断れる立場にない。電話を切る。
ややこしいことになりそうな気しかしない、と亜紀は思った。あのふたりは結局、まだ付き合うことにはなっていないはずだが、私情が絡みまくっていないか?
「もちろんそんなのつっこめないけどさ……」
なんとなく、春彦のデスクを見る。いまごろニューヨークで忙しくしているのだろう。話の全貌がわからない段階で連絡するのは気が引ける。
そして、ロナルド社長といえば、だ。
彼は春彦の祖父の友人で、春彦をとても可愛がっている(春彦が呼ぶところの)「じいさん」である。この件について、春彦がどのくらい知っているのか、亜紀は聞かされていなかった。亜紀も聞き出そうとは思わなかった。その繋がりを社内のほとんどの者が知らないわけで、そっとしておくのがいちばんだと考えたから。
緒方専務から春彦に連絡済みなのに自分に話がこなかったのも不自然で、となると、このざっくりした上司は、本当にざっくりとしか春彦に言っていないのかもしれない。それこそ「クロスで一ノ瀬に頼みたいことがあるからこっちから話していいか」程度。彼らは明確に「親しくない」し、出張中にそこまでマメに話せないのはいつものことなので、ふんわりしたやり取りで終わっている可能性が高い。
スマホを見ると、当然のようにLINEの通知が来ていた。心寧だ。
『亜紀くんごめんーーー! 私は緒方が言う前には言えなかったんだよう』
大丈夫、と返信をして、打ち合わせの時間を確認し、亜紀はいつもの仕事に戻った。春彦が戻る日だな、などと思いながら。
「元気ないね?」
通りかかったアーノルドに言われた。
「そう? そんなことないと思うけど」
「剣持サンがいなくてサミシイね。ダイジョウブ、明後日帰ってくるからね」
「えっ」
思わず宮島を見たが(宮島もこっちを見ていたのでばっちり目が合った)、宮島はぶんぶん首と手を振った。「言ってない、言ってない」と言ってるっぽい。
寂しくないよ、と言い返そうにも、アーノルドはもうその場にいなかった。ちなみにだが、アーノルドの営業成績はかなりいいので油断ならない。でもおかげでなんだかすっきりした。とにかく話を聞いてみればいい。仕事なのだ、ここは全然ブラック企業ではないわけで、イヤなら断れる。相手が心寧さんならなおさら。部長である春彦が不在なのだ、気を抜いてはいけない。
その2日後。つまり、春彦が海外出張から戻る当日には、心寧と直接話せた。打ち合わせといっても、オープンスペースにあるテーブルについているのは、心寧と亜紀のふたりきりである。
「ほんっとうにごめん……! ちょろっと緒方の前で弱音を吐いたらこんなことに……私はまだ亜紀くんに声をかけるつもりなんかなかったの」
「いえいえ……でも、なに? 弱音?」
「企画書だってうまくできた気がしない……」
「ええ? 心寧さんに限ってそんなことあるのかなあ。実動メンバーにはつっこまれなかったんでしょ?」
亜紀は送信してもらったばかりの企画書を見始めた。とりあえず、心寧らしいくっきりした内容で、問題があるようには思えない。ターゲットに対する新規ウエディングプランの提案。すべてがレストランウエディングだ。うちの会社ならそうなる。レストランごとのホールツアーコンテンツの一部に、プロモデルではなく「社員モデル」を登用することで、より身近な視点で「私たちふたりなら、どんなウエディングになるか」を想像しやすくしてもらえる。
社員モデル。なるほど?
手描き線画風のラフも掲載されている。美しいし、よくできている。これを実写でやるならかなりいい感じだろうというのもわかる。
けれど。この部分をもってして全体を見直すと、違和感がスゴイ。
男性社員モデル(打診予定) 一ノ瀬 亜紀
女性社員モデル(打診予定) 森口 レイラ
「心寧さん……これは……あの」
ラフを見る限り、この男性役は自分ではないはずだ。そんなものはすぐわかる。
本来ここにあるべき名前は、「剣持春彦」だ。
「わかっちゃうよね? ああ……わかるよね」
「はい」(まず、身長が足りていないんです)
「でも、理由があるの、理由が……亜紀くんなら知ってるかもしれないんだけど、」
「──ココは私と春彦がいとこ同士って知らなかったんだよ。まあ、社内の誰も知らないんだけど」
亜紀は思わず「おわあ」と声を上げた。女性が亜紀の真後ろから覗き込んでいる。
こちらを覗き込み、にこりと微笑む整った顔。つやつやのロングヘア。このひとが「秘書課のレイラ」だ。
「レイラぁ~、こっそり近づいたでしょ~」と心寧。
「そんなことないよ。堂々と来たよ」と彼女は悪びれず言った。
亜紀くんよろしくね、とレイラは亜紀の隣に腰かけた。亜紀くん呼びだった。亜紀くん呼びは許可制ではないため、仕方がない。
「よろしく……森口さん」
亜紀は礼儀正しくご挨拶した。営業用スマイルにはなったが。
「森口さん? やだな。『レイラ』って呼んで。せめて『レイラちゃん』で」
──もし。もし、春彦とのことがなかったら。つまり、半年前だったのなら。
社内で人気のある女性(しかもふたり)に囲まれて、まあやってみようじゃないですか、となったかもしれない。しかし、それはもうあり得ない現実だ。しかも、「俺の従姉妹がどんな女なのか」は、たびたび春彦から聞かされている。だから、
いや、無理。助けて春彦
……と、思ってしまう。春彦じゃあるまいし、自分には難しすぎる。
でも。でも。切り替えろ、冷静さが私の持ち味だったじゃないですか。この程度で恋人に泣きついていたら、百年の恋も冷めなさそうだけど冷めたらどうする。
「社内で呼び捨ては難しいね。俺のほうが年下だし、となると、やっぱりレイラさんかな」
完璧なクールさで言ってみせた。レイラを狙っている男性社員は、やまのようにいる。必要以上に親しくしたって、いいことなんかなにもない。
ちなみに、春彦はレイラには自分たちの付き合いを言っていない。隠しているわけじゃなさそうだが、「なぜあいつに報告してやらなくちゃいかん」くらいのことらしい。
「亜紀くん、すごい真面目だね」
「どうも。知らなかったんだけど、心寧さんと親しいんだね?」
どうせタメ口でいいと言い出すだろうから、もうタメ口にする。
「そう。にゅうおめ研修(※入社おめでとう研修)の次の鬼研修ってあるじゃない。あれの同期。ちなみに、春彦にはこの繋がりは内緒」
「内緒?」
「そのほうが便利だし、面白いじゃない。だって、春彦だよ?」
彼女はけたけたと愉快そうに笑うと、「これ、もっかい見せてね」と亜紀のパソコンの資料をタップしはじめた。
改めて理解する。いとこ同士、やるかやられるかの関係どころか、喰うか喰われるかみたいな関係なのだ。そりゃあ春彦も警戒するに決まっている。
「えっと、それで。春彦はレイラさんのいとこだから難しくなったってことで……いや? 別にいいんじゃ? 社内で知ってるひとなんていないよね」
赤の他人としてやることをやればいいのだ。
「いや……普通に無理でしょ……」と心寧。「わかるでしょ、春彦とレイラだよ。春彦が素直にやってくれるわけがない」
「ははは!」と、レイラ。「あとまあ、私があいつと付き合ってるって噂とか考えても、避けるのが無難なのかな? いちおうね?」
それはとっとと否定すればいいことじゃないですか、とは思うが。それよりも。
「それで、なんで俺になったの」
問題はそこである。
企画書をつくった本人には申し訳ないが、自分がモデルでは、このイメージには合わない。確かに「旦那のほうが背が高い」といった一辺倒なイメージを守る必要はまったくないけれど、やっぱりちょっとこのラフとは離れてしまう。
「「え」」
──と、心寧とレイラ。きょとんとした顔をしている。
「なんですか、ふたりして」
「社内人気トップ2のひとりでしょ。春彦がダメなら自動的に亜紀くんになる」と、心寧。
「なななに……言って……知らないよ、そんなの。春彦だって」
「知るわけないでしょ、そういうのだいっきらいな男なんだから。本当に遊び心がないわ」とレイラが首を振った。そんなんだからココともうまくいかなかったんだよ、と。
心寧は気まずそうに微笑んで、首を傾げた。
どうやら、心寧は心寧でレイラにすべてを話しているわけではない。春彦は心寧に文字どおりフラれたことになっていて、その真相みたいなものは伝えられていない。あるいは、「隠されている」。
それぞれ、次のアポがあったため、話はそこで終わった。亜紀は承諾の返事をしないまま。すべては保留。そして「いったん全部春彦に秘密」で、と。クロス業務の内容までは、直属の上司に報告する義務はない。メイン業務の邪魔にさえならなければ、かなり自由にできる。
秘密。いまの段階では、どのみちそのほうがよさそうだった。
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