23 / 25
9.春彦の知らない会話
──10月11日(日)日曜朝、亜紀のアパートにて/亜紀視点
変な眠りだった。仰向けになって海か、広い湖に浮いている夢を見ていた。
力を抜いてゆらゆらと波に揺られていると、全然沈まない。「動かなきゃ」と思うと、突然沈みそうになる。しかたないから、また仰向けになってゆらゆら、ぷかぷか浮く。
困った。これじゃあ、全然動けない。
「なにしてる? こんなところで」
春彦の声。春彦は腰まで水に浸かっているものの、普通に立ってこちらを見下ろしている。
「動けないの、なぜか。浅いのに足がつかない」と、彼を見上げて言う。
「ずっとここにいたいのか」
「そんなわけないでしょ。俺にはやることがいっぱいあるし。やっぱり君の家に行けばよかったなあ。そしたら、こんなことにならなかった」
「いまからでも行ける」
「終電、ないよ」
「いらない、そんなものは」
「え」
身体が浮いた。春彦がおひめさま抱っこをしてくれたのだ。お互い服はびしゃびしゃだが、春彦はなにも気にしていないようだった。
「これって、おひめさま抱っこだ~」
「しっかり掴まって」
嬉しくなって、太い首に腕を回す。ぎゅっと抱きしめる。
首筋に唇をあてて強く吸うと、小さく跡が付いた。
「なにしてる?」と、春彦が優しく訊いてくる。子どもに尋ねるように。
「印を付けた。これは、……俺のですって」
「指輪もあるのに」
「……それじゃ足りない、のかも」
「足りないんだ?」
「うん、足りない。欲張りかな」
「欲張りじゃないよ。すごく可愛い──
目が覚める。
すぐそばに水気が残っているような感覚があったが、数秒で消えた。
たいしてイヤな夢というわけではないのに、妙に物悲しい雰囲気がまとわりついて、泣きそうになる。反射的に左手を見た。指輪はちゃんとそこにある。サイズはぴったりで、なんの締め付けもない。なさすぎて、なくしてしまったのかと思ったくらいだった。
自覚がなさすぎた。「足りない」のだ。
与えられて与えられて、満ち足りていると思っていた。いまのままで十分だと。だが、そうではない。もっと話したい。隣に寝ていたい。一緒にいたい。
腹が鳴った。悲しいことにいつでも腹は減るし、今日は家に食べ物がない。昨夜はコンビニに寄る気力もなかった。もう10時だ、起き上がって買い物くらいはしたほうがいい。
ベッドを降りた。なにげにしっかり朝勃ちしている。
「こんなときにも元気ね、君は……。おはよう」
自分の股間に向かって挨拶し、思いきり伸びをした。珍しく煙草でも吸おうかと思ったが、在庫がない。そうだ、全然吸わなくなってしまったので買ってもいないのだった。最近は春彦も煙草を吸わない。自分と一緒にいると、遠慮してくれてるのだと思う。
買い物からアパートに戻ると、建物の前に佳代さんがいた。
「佳代さん、おはようございます」
なにげにここではよく遭遇するので、珍しいことではない。彼女はアパートの管理を自分自身でしっかりしたいらしく、しょっちゅう建物や敷地内の状況を確認しに来ているのだ。
でも、今日はいつものようにアパートの様子を見てるふうでもなかった。
「誰か待ってたの?」
「うん、亜紀ちゃんを」
「俺? ……なんだろ?」
佳代さんは「ふう」と息をついてから、「私、不動産を全部手放すの。このアパートが最後よ。やっと……手放せる」と言った。
「……え? 大家さんをやめるってこと?」
「うん。亜紀ちゃんも知ってのとおり、私ってこういう性格でしょ? 細かくって、いろんなことを自分でやらないと気が済まない。若いころはそれでもよかったけど、さすがにもう疲れてしまって」
「ああ……それは、……うん。大変だったのは知ってるからね」
「これからは家でゆっくり本を読んだり、北海道や沖縄の友人のところに何週間も滞在したりしたい。でも、大家さんをやらないと亜紀ちゃんには出会えなかったから、やってよかった。亜紀ちゃん、いままで私のためにここに住んでくれてありがとう」
ぎくっとする。そうなのだ、確かに、引っ越しをしようと思うたびに佳代さんのことがあって、諦めてきた。というか、そこまで大きな問題でもなかったのだ、立川に住むことは。通勤はそこまで苦ではないし……と、そこまで考えて、仕事のひどい山場には、新宿を拠点にできていたことに気付いてしまった。付き合い始めてからは特に。
それは、いまの働き方をしながらここを住まいにすることの、限界そのものを示している。
「それ、だけじゃないよ。ここ、大好きだし」
かろうじてそうは言ったけれど。
「うん。でもね。だからね、亜紀ちゃん、契約を続けなくても大丈夫、ってこと」
「…………え、俺、ここから出て行かないといけないの?」
落ち込んでいたところに、ダブルパンチぎみのショックが来る。
「そういうわけじゃないけど。新しい大家さんに変わっても、ここに住み続けることはできるよ。でもね、私のために契約を続けなくてもいいの。私に権利があるうちは、日割りで家賃返しちゃったりしてあげちゃうし」
「でも……」
「春彦と住めたらもっといいでしょ」
「え」
突然出てきた、恋人の名前(亜紀が「春彦」と呼び捨てするので、佳代さんもそうなっているし、なんなら彼女の孫たちもそうなっている)。そりゃあ、佳代さんとはあれこれとプライベートな話をしてきたけれど。春彦のことについては、そもそもは佳代さんの旦那さんとの恋バナから始まって、そこから。
「違うの? 春彦はおいでって言ってくれてるんじゃないの」
「……それは、そうだけど」
「じゃあ、春彦と住みたい?」
昨日自覚したばかりのことだけれど。もっと一緒にいる時間が増やせたら、と。誰かの目を気にしながら過ごす職場ではなく、甘えていいのだという恋人に思い切り甘えられる場所。甘やかしてあげられる場所がほしい。
「……うん。一緒に暮らしたい」
「そうよね。それで、それはいつからなの?」
「え? えええ?」
「例えば、だけど、今日お引越しができたら、したい?」
「……今日? 無理でしょ」
「無理じゃないとしたら、よ。あくまでもできる限りいちばん早くできたらってこと」
まあ、そういうことなら。現実的に考えても、亜紀があの家にすぽんと入ることは可能だ。生活に必要な家財道具は春彦が持っているもので十分すぎるくらいだし、持っていくものは自分の洋服や本程度。ここに引っ越してからあまり物を持たないようにしていたので、いくらかの家具の処分さえできれば問題はない。
「処分したい家具は置いていってくれて構わないよ。ここに引っ越してきてからずっと同じものとか、中古の小さいベッドなんかはもういらないでしょ」
「具体的だね……まあ、確かにそう。ひとつ、ブルー・リーフのパソコンデスクがあってね、あれは持っていきたい。あとは、押し入れのなかにある衣装ケースくらい?」
なにせ、姉には「いつでも夜逃げできる仕様」とまで言われた部屋である。
「じゃ、もし引っ越ししようと思ったらできちゃうんだ? これも例えばだけど、二葉と一沙が手伝うとして。トラックもお店のが使えるとして」
「う? ……うん。そうね。そうだと思う」
佳代さんの話は妙に具体的だが、この方の話はいつもこんなことが多いので、亜紀はそう答えた。佳代さんと話していると、妄想の中でだけど行ったことのない国で生活することになったり、水道管が全部破裂した場合などのような、すごいトラブルに対応することになる。
だから、今回もそうなのかなと亜紀は思っていて、そう答えた。
「よし。言ったね?」と、佳代さん。
「ん? ……うん、言ったけど」
「了解よ」
佳代さんはそう言うと、手帳タイプのカバーを付けたスマホをぱくっと開き、3回くらいタップし、耳に当てた。誰かに電話している?
「なになに、佳代さ……」
「あ、もしもし、春彦? 私、立川の佳代さんよ」
え?
「あなたが心配していた言質は取ったよ。今日行くわ」
佳代さんは、誰に話しているんだ?
春彦? なぜ?
「……ん、ちょっと待っててね」
しばらく話したあと、「はい」とスマホを差し出される。手帳タイプは慣れていないので、両手で受け取った。
『亜紀?』
ド寝起きの声だ。掠れている。この状況を説明しなければなにもわからないだろう。
「あの、はるひこ、これは……」
『早くおいで。待ってるよ』
春彦は、わかっている?
亜紀は電話を切った。説明はあとで全部聞けばいいと思った。どうせ、自分の想像できないところでこの男が動いている。自分の知らない場所で、とても大切な会話が繰り広げられているのだ。
──ただし、その矢印は全部と言っていいほど、自分に向いている。
あたたかな気持ちに包まれた。甘えてもいいのだ、と昨日を後悔した自分が言っている。
「亜紀ちゃん。さっそく準備を始めよう。ダンボールは二葉たちが持ってくるよ」
「うん。佳代さん……」
「幸せになってね、亜紀ちゃん。いままでおばあちゃんの相手を丁寧に、丁寧にしてくれて、本当にありがとう」
ともだちにシェアしよう!

