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第4話

あの女子高生が店に来てから数日がたった。 彼女はあの朝以来現れていない。 彼女があれからどうなったのか気になるが、同時に知ってしまえば戻れなくなるような気がした。 そこまで考えてふと思った。 戻る? どこへ? この、何もない空っぽの生活へ? 何もない自分、それでも生きている。 生きて、今日の夕飯何にしようかなんて考えている。 意地汚いとも思うが、それでも滝は生きている。 今日は昼シフトの主婦が子供の熱で学校に呼び出されたため、2時間残業をした。 11月初旬の今は17時を過ぎるともうあたりはすっかり暗くなる。 早く帰らなければ。 冷蔵庫の中には昨日買った豆腐がまだ残っているはずだ。 夜も寒くなってきているから、湯豆腐にしてもいいかもしれない。 敢えて脳裏に浮かぶ二つの影を考えないようにして滝は家路を急ぐ。 そこに、冷たい声が響いた。 「お前、死にたいのか?」 背後から響く声に滝は咄嗟に距離をとる。 灯り始めた街灯に照らされ男は立っていた。 淡い光が男の輪郭を浮かび上がらせる。 やはり男は美しかった。 見惚れながらも滝はじりじりと後ずさる。 しまった、もう少しで家に着くため油断していた。 滝の住む古いアパートは大通りから少し入ったところにある。 人通りはまばらになるとはいえ、この時間は誰かしら歩いていてもおかしくない時間帯だった。 それなのに今、滝と男以外誰もいない。 逃げられない。 こんなところで男に見つかってしまった。 男は薄い唇を開いた。 「お前、この時間に歩くなんて自殺行為だぞ。今はちょうど夜と行き合う時間だ」 「夜と……行き合う?」 どこかで聞いた言葉に滝は訝しく思いその言葉を繰り返した。 「逢魔ヶ刻。魔と行き合う時間だ」 楽しそうな男の声に滝は踵を返し駆け出した。 本能が告げていた。 この男、人じゃない。 逃げなければ。 それなのに。 「どこに行く?」 逃げたはずなのに、目の前に立つ男に滝は息を呑む。 「言ったはずだ。逃げても無駄だと」 恐怖ですくむ滝の視界がふと違和感を覚えた。 街灯に照らされた影は一つ。 滝のものだ。 影がない。 男には、影がないのだ。 「あんたも……魔物なのか?」 震える声で呟いた滝の言葉に、男の目が細められた。 「おい……お前、口の聞き方に気をつけろよ。誰に向かってものを言っている」 男は胸ぐらを掴んで引き寄せた。 至近距離で水の膜を張ったような目が、硬質なガラスのように煌めく。 「…いいか、2度目は決してない。気をつけろ」 唸るように言って男は滝を突き放した。 その衝撃で滝は知らず詰めていた息を吐き出した。 殺されるかと思った。 男との身長差は10センチ以上あり、細身で華奢ともいえるその男の力は驚くほど強かった。 滝など一瞬でくびり殺せるくらいに。 この男は圧倒的強者だ。 間違いなくこの場は男に支配されている。 魔物より強い力を持つ、魔物以上の『何か』に。 男は滝をしばらく見つめたあと、ふと息を吐きこう言った。 先ほどの空気が霧散する。 「お前、人とはなんだと思う?」 「え…人?」 男の問いに滝は戸惑った。 考えたことがない。 人とは? 「……生き物?」 やっと捻り出した言葉に男は小さく笑った。 「そう、生き物だ。では、何を持って人は『生きている』という?」 「…息をしているから…?」 「そうだな、呼吸をしなければ人は死んでしまうからな。ではどこで息をする?」 「…肺?」 「そうだな。口や鼻から吸った空気を気管を通して肺に送ることで人間は呼吸ができる。じゃあどうして呼吸をするんだ?」 「…息をしないと死ぬから」 「どうして死んではいけないんだ?」 「……生きたいと、思うから……」 口にして初めて滝は気づいた。 そうだ、滝は生きていたい。 惨めで空っぽな人生でも、滝は生きていたいのだ。 だって滝は今、生きて呼吸をしている。 自分の気持ちに気づいた滝に男は続けた。 「そうだ。呼吸をする体と、生きたいという心があって初めて『人』という『生き物』になるんだ」 「…俺は、生きている」 「そう。お前は生きている。生きたいんだよ、お前は。いじましく残り物の半額弁当を食べてでも、な」 言葉と同時に滝の手に黄色い何かが投げられた。 不細工なカエルが描かれたエコバッグ。 イラストはハゲて取っ手が少しほころびている、4年間使った滝のエコバッグだ。 「弁当はさすがに捨てたぞ。だがこのバッグはだいぶ使い込んでいる。大事なんだろう?」 大事なんかじゃない。 代わりのものがないから使っていただけだ。 だけれどこれは、滝と4年間一緒に生きてきた。 空っぽで何もない、滝と。 「…ありがとう」 その言葉はすんなりと口をついて出た。 それに男は鼻を鳴らした。 「お前はまだ生きたいと思っている。それがわかって何よりだ。 じゃあもう一つ質問をしよう。 体と心――魂を持つことが人間である条件だ。 これはもうわかったな? では、どちらか一つしか持たない存在がいたとしたら?」 滝の体にまたあの感覚が蘇る。 背筋を震わせるのは確かな恐怖だ。 「人では、ない……?」 「そう、人ではない。お前が会ったあの女もその類のものだ」 「じゃあ、あれはなんなんだ」 「妖。妖怪と呼ばれる類のものだな」 滝は女の夕日を帯びた赤い目を思い出した。 「…でも、あの女と会ったのは神社だ。普通、神社には神様がいるもんじゃないのか?」 その言葉に男は短く笑う。 「お前は木の葉の一枚一枚に名前をつけたことはあるか? そしてその葉がやがて枯れ、地面に落ちるのを悲しんだことはあるか? 葉から落ちた水滴に名前をつけ、こぼれ落ちることを嘆き悲しんだことは?」 男は滝を見据えた。 凪いだ、感情を感じさせない目だ。 「神にとって人間とはそんなものだ。 神は人間の願いを聞くために『いる』のではない。神はただ、『ある』ものだ」 「神はただ、『ある』もの……」 その言葉に滝は、なぜか救われた気がした。 なぜなら滝は祈ったからだ。 預けられた親戚の家で、家族の食卓にはいれず一人部屋でカップラーメンを啜った夜に。 男の暴力を受け血で汚れた服を、着るものがないからと必死で暗い風呂場で洗った夜に。 1年間共に過ごしたクラスメイトに「しら…えーっと、名前なんだっけ?」と言われ、存在すら忘れられていたと気づいた日の夜に。 誰からも存在を軽視され、便利に利用され、使い終わったら噛んだ後のガムのように捨てられる、この人生を変えてくれるように祈った。 だけど何も変わらなかった。 神にさえ見放されたのかと滝は思った。 けれど男は神は人の願いを叶えるものではない、と言う。 神は誰の願いも叶えない。 神は等しく平等だ。 「本来神は、恐れ敬うものだ。 だからこそ人間は赦しを乞う。 本来の神への信仰はそうあるべきだ。 神社とはそれを行う場所だった。 だがいつのまにか人間の願いを押し付けられる場所になった。人間の都合でな」 滝の脳裏にあの少女の言葉が浮かぶ。 願いが叶う神社。 困った時の神頼み。 全部人間の都合だ。 「中にはそれを厭った神が神社から離れる時がある。 あれもその神社の一つだ。 だが神がいない神社に、人は願いを捧げ続ける。 自身にとって都合がいい、それが他者になんの影響を及ぼすのか、全く考慮しない勝手な願いを。 そしてその欲に塗れた思いは妖の大好物だ。 神が去った神社にはそういった妖どもが住み着くことが多い」 「じゃあ、願いが叶う神社って…」 「叶えているのは神でない。全く別のものだ」 『困った時の神頼みって言うし?』 そう、彼女は祈った。 妖の、あの女がいる神社に。 「なあ!」 慌てて滝は声を上げた。 「コンビニに、たまにくる女の子が何かあの神社に行って何かを願ったみたいなんだ。この間見た時少しおかしくて……どうすればいい?」 男はどこか嘲るように答えた。 「知らないな」 「なっ……」 「知らないな。その女が俺にどんな関係がある」 「だからって!」 真実を知ったからには、放って置けない。 「だって、その子は知らなかったんだ。あの神社がそんな危険な神社だったって」 言い募る滝に男は鼻を鳴らした。 「お前は人を殺すことが罪だと知らない人間が人を殺したとして、それでも罪がないと言えるのか」 「極端すぎだ!それとこれとは話が違う。あの子はただ本当に知らなくて…!」 「同じだ。取った行動の責任は本人に帰結すべきだ」 会話の中でいつのまにか滝は男に親しみのようなものを覚えていた。 男は滝の長年の祈りに答えをくれた。 滝の25年の人生でここまで滝に深く切り込んだ存在はいなかった。 それなのに、改めて思い知る。 この男は人でないのだ。 それでも。 「でも、だからって放って置けない…」 「理解できないな。なぜたまに会う女にそこまでこだわる」 「だって…」 滝は知っている。 悲しいことなんて何もない顔をして、友人と笑い合うあの子を。 滝には眩しい、こうありたかったという、理想の1ページの中のあの子を。 あの子がどんな思いで神社に行ったのかは知らない。 冷やかしだったのかもしれない。 笑顔の奥で本気の恋で悩んで、縋る気持ちで願ったのかもしれない。 どうか恋が叶いますように、幸せになれますようにと。 それの何が悪い。 救いを求めて何が悪い。 あの子も、俺も同じじゃないか。 息をして、生きて、少しでも幸せになりたいと思う、ただの「人」だ。 「だって…願いたい気持ちは、俺もあったから…」 「……」 沈黙が落ち、あたりには街灯が時折立てる音だけが響き渡る。 やがて男が口を開いた。 「……だが、無理だな。俺にはどうすることもできない」 「でも…!」 身を乗り出す滝を手で制し男は続ける。 「無理だ。俺は人の理に触れることができない」 「…人では、ないからか?」 滝の言葉に男は薄く笑う。 「そうだ、俺では人の理に関わることができない」 「同じ人じゃないあの女は関わっているのに?」 「あれは元々は人であったものだ。 今は魂だけのものであっても、この世の理から外れる存在ではない。 俺とは根本からして違う。 …お前に、他人のことなど気にする余裕はないはずだがな。 わかっているのか?お前もまた狙われている存在だということを」 滝は無意識に喉元に触れた。 当たり前だがそこには何もない。 「…俺が、『首輪なし』だからか?」 「そうだ。首輪に繋がる鎖は、ある種の呪であり祝いでもある。 だから人ならざるものは入りづらい。 取り込むためには少しずつ壊していく必要がある。 お前が気にしてるその女のようにな。 お前、人ならざるものが一番欲しい物を知っているか?」 「ほしい、もの?」 人間じゃないものの考えなんて、わかるわけがない。 「体だよ。現世に強く干渉できる、体」 笑みを浮かべた囁き声が風に乗る。 空気に乗ったそれは滝をじんわりと絡め取った。 「お前には首輪がない。 それに繋がる鎖もない。 奴らは輪廻の輪を拒み現世に固定された存在だ。だから人間の肉体に強く執着している。 人と繋がりを持てず呪いも祝いもないお前は、奴らにとって最高のご馳走なんだよ」 女の目を思い出す。 夕陽を帯びた、赤い瞳。 そう、あれは獲物を狙う捕食者の目でなかったか。 それは先程男に胸ぐらを掴まれた時に感じた恐怖とは似て非なるものだった。 男とは違い、あの女の目には湿度があった。 「体と魂が揃ってはじめて人間と呼べる存在になる。 これは話したな。 では、人ならざる者――例えば妖が首尾よく乗っ取った体に入り込んだらそれは人という存在になれるのか? 答えは否、だ。 一度拒んだ魂は再び自分の力では人の輪廻の輪に戻ることはできない。 つまり人とはなり得ない。 手に入れた体は奴らにとって所詮仮初の体だ。目的を果たしたら、捨てるだけのな」 「……じゃあ、目的が済んだら体は本人のところに戻るのか?」 「戻る?まさか」 心底おもしろそうに男は笑う。 「奴らがそんなに優しいわけないだろう。 大抵は目的達成とともに肉体もなくなるさ。 まあ、死因は色々あるがな。 そして次の獲物にまた狙いを定める」 「…じゃあ、肉体に戻れない、弾き出された魂は?」 「魂だけの存在になればそれはもはや人ではない。 人ならざるものとして、現世に固定される。 そして肉体を持たない魂は人間の肉体に執着する。 面白いほどどこかで見た光景の繰り返しだな」 呪いのビデオ。 昔テレビで見た映画を思い出した。 見たものは1週間後に必ず死ぬ。 それを回避するためには他の者にもビデオを見せなければいけない。 そうやって呪いはどんどん増殖していくのだ。 終わることのない、ループ。 「じゃあ…追い出されたら、あの子の魂は…」 「運良くどこかの力がある者に見つけられれば浄化してもらえるかもな。 まあ何年後か何十年後かは知らないが。 そうすれば再び輪廻の輪に戻れる」 「俺も、そうなる可能性があるのか?」 「お前は違う」 言い切った男に心臓が嫌な音を立てる。 「お前は違う。 お前に刻まれた業は、『未来永劫の転生を繰り返しその度惨めに生き、惨めに死ぬこと』だ。 魂を弾き出されてもまた輪廻の輪に戻るだけだ。 そしてまた惨めたらしく生き惨めに死んでいく。 これも同じ光景の繰り返しだな」 淡々と男は語る。 死への救いはあの、男と初めて会った夜に壊された。 それを認めたくなくて、滝は逃げた。 なのに男は追いかけてくる。 そしてこう囁くのだ。 お前はもう逃げられない。 お前の「生」に終わりはないのだと。 男との会話の中で、滝はなぜか確信めいたものを感じていた。 この男は、嘘はつかない。 だから男が語ったことも、これから滝に起こる「事実」なのだ。 「……どう、すればいい……」 やっと発した声はみっともなく震えていた。 それでも滝はもう一度繰り返す。 「…俺は、どうすればいい……」 滝の言葉に男の目がニィ、細められた。 「お前の選択肢は2つだ。誰からも顧みられず誰とも繋がれない惨めで孤独な生を永遠に繰り返すのか。もう一つは」 言葉を切った男が白く浮かび上がる。 ああ、眩しいと思ったら月が昇り始めたのか。 今夜も月が綺麗だ。 月に照らされた男はやはり美しく、滝は目を逸らすことができなかった。 「俺と鎖を結ぶか、だ」 それは確かな誘惑だった。 滝に「生きたい」という欲求を気づかせ、そのすぐあとで「お前が繰り返すのは救いようのない惨めで孤独な人生だ」と突きつける。 そして縋るものは自分しかいないと囁くのだ。 昔読んだ話を思い出す。 地獄に落とされた男に差し出された一本の蜘蛛の糸。 その白い糸は、男にはさぞきらきらと美しく映ったに違いない。 この、目の前の男のように。 「お前は…何者なんだ…」 「今明かす必要性を感じないな」 「だって……一方的すぎるだろ…お前が何者かもわからないで鎖を…契約を結ぶのなんて」 「おい、勘違いするなよ。なぜ俺とお前が対等な契約を結ばなければならない。お前にできるのははいかいいえを答えるだけだ」 ひどく傲慢な言葉。 だが男にはこれは当然の事なのだろう。 男は圧倒的強者だ。 そしておそらくその言葉は正しい。 「俺が、お前と契約…鎖を結べばどうなる」 「お前が今まで誰とも繋がれなかったのは鎖をつなぐ首輪がなかったからだ。俺と鎖を結び、首輪をつけることができればお前は他者とも鎖を繋ぐことができるだろう」 「…それで俺はその『業』から逃れられるのか?」 「どうなるかは俺にもわからない。ただ、少なくとも『今』を変えることはできるだろうよ。先のことまでは知らないがな」 「…お前のメリットはどこにある?」 「メリット?」 そこで男は初めて虚を突かれたような表情を見せた。 そして小さく笑う。 「さあな。これはただの気まぐれだ。どうせ俺はこの先も長い時を生きなければならない。たまには人間と鎖を結ぶ、そんな酔狂なことをしてもいいだろう」 男は永い時間を生きてきたのだろう。 そしてこれからも生きていく。 終われない男と繰り返す自分。 より孤独なのはどちらなのだろうか。 瞳を揺らす滝に、男は揶揄うように片眉をあげた。 「おい、こんなに簡単に丸め込まれてどうする」 「…はいかいいえの二択と言ったのは、あんたじゃないか」 「俺が求めたのは回答だ。だがお前は人間ではない正体も明かさない俺を慮り、簡単に感情を渡そうとする。それは誰からも愛情を向けられたことがない弊害か……。簡単に俺を信じるな。よく考えろ。第一、俺は人間と鎖を結んだことがない。本当にどうなるかわからないんだ」 「……あんた、自分でもよくわからないのに回答を求めたのかよ……」 「だから言ったろう、信じるな、と」 男はどこか楽しそうに笑い滝を見据えた。 「考えろ。他者に回答を委ねるな。お前が考え、お前の意思で選ぶんだ。決めるのは俺じゃない。白水滝、お前が答えを選ぶんだ」 人生は小さい選択の積み重ねだ。 いつだって滝は選択してきた。 半額の唐揚げ弁当と半額ののり弁当。 おにぎりの具は鰹節か梅干しか。 豆腐とネギがあるなら夕食は湯豆腐か冷奴か。 我ながらこんな時に浮かぶのが食べ物しかないのが情けないが仕方ない。 だって食べなければ人間は死んでしまうから。 世の中にはもっと贅沢なものも美味しいものもあるのは知っている。 だけど滝にはそれ「しか」、限られたものの中で「しか」選べなかった。 それなのに。 いっそ「俺を選べ」と言ってくれた方が楽なのに。 それなのに、男は選ばせる。 小さな選択しかできなかった滝に、 人生を確実に変えるであろう「白水滝」の選択を。 「よく、考えろ。『お前の』選択だ」 すっと細い指が上がり、男はこう告げた。 「覚えておけ。それがどういう結果であろうと、引き受けるのはお前自身だ。お前の意思で選んだお前の未来だ。白水滝」 そして男の白い指先が、静かに滝を射抜いた

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