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第3話 名前で呼んで

先輩がゴールを決めた。 ボールがネットを揺らした瞬間、グラウンドのまわりから歓声が上がる。 「先輩ー!」 「こっち向いてー!」 女子の声がすごい。 先輩はチームメイトと軽く手を合わせたあと、応援している生徒たちに向かって笑った。 それだけで、また声が上がる。 俺は少し離れたところで拍手しながら、ため息をついた。 やっぱり、かっこいい。 運動ができて、背も高くて、明るくて、誰とでも普通に話せる。 そりゃ人気出るよな。 女子はいいよな。 先輩のことを好きでも、何もおかしくない。 俺も女だったら、たぶん告白していた。 振られたっていい。 一回くらい「好きです」って言ってみたい。 まあ、男だから無理だけど。 「おーい、帰るぞ」 同じクラスの友達に呼ばれた。 「今行く」 もう一度だけグラウンドを見る。 先輩は仲間と話していて、こっちなんて見ていない。 当たり前だ。 俺と先輩は、住んでいる世界が違う。 そう思っていた。 最初に話したのは、図書室だった。 俺は一年生の図書委員で、その日は返ってきた本を棚に戻していた。 上の段に入れようとして、背伸びをする。 届きそうで届かない。 あと少し。 「それ、上?」 後ろから声がした。 驚いて振り向く。 先輩がいた。 「え?」 「その本。ここでいいの?」 「あ、はい」 先輩は俺の横から手を伸ばすと、簡単に本を棚へ戻した。 近い。 思ったよりずっと近い。 部活のあとだったのか、少し汗の匂いがして、その中にシャンプーみたいな匂いも混じっていた。 なんでそんなことまで気づくんだ、俺。 「はい」 「あ、ありがとうございます」 「一年だよね?」 「はい」 「よく見るなと思ってた。いつも図書室いるよね」 「図書委員なので」 「そっか」 先輩が笑った。 「頑張ってるね」 それだけだった。 たったそれだけ。 なのに、その日から先輩を見ると少し緊張するようになった。 そのあと、先輩が本を借りに来るようになった。 最初は月に一度くらいだったのが、そのうち毎週来るようになった。 「この前の、面白かった」 ある日の放課後、先輩が返却台に本を置いた。 俺がすすめたサスペンス小説だった。 「本当ですか?」 「うん。最後まで全然分からなかった」 「ですよね!」 うれしくなって、俺はすぐ近くの棚から別の本を抜いた。 「じゃあ次、これどうですか? 前のよりちょっと事件が複雑なんですけど、途中から主人公のお兄さんが怪しくなってきて、でも実は家族が――」 「待って待って」 「え?」 先輩が両手を上げた。 「それ以上言わないで」 俺は口を閉じた。 一秒。 二秒。 「あ……」 やった。 「すみません」 「危なかった」 先輩が笑う。 「俺、好きな本の話すると、つい」 「うん。知ってる」 「え?」 「本の話すると急にいっぱいしゃべるよね」 恥ずかしくなった。 「……すみません」 「だから、なんで謝るの」 先輩は俺から本を受け取った。 「そういうとこ、けっこう好きだけど」 心臓が止まりそうになった。 「……え?」 先輩が一瞬きょとんとしてから、すぐに笑った。 「本の話してるときね」 「あ、はい」 そうだよな。 そうに決まってる。 俺は貸し出しの手続きをするふりをして、下を向いた。 顔が熱い。 「じゃあ、また読み終わったら来る」 「はい」 「次は最後まで言わないでね」 「気をつけます」 先輩は笑いながら図書室を出ていった。 扉が閉まる。 俺は机に手をついた。 無理だ。 今のは無理だろ。 好きな相手に「好き」って言われたら、本の話だと分かっていてもびっくりする。 それから、先輩と話す回数はもっと増えた。 廊下で会えば声をかけてくれる。 「今日、図書室いる?」 「いますよ」 「じゃああとで行く」 そんなことを言われるだけで、その日の委員会が少し楽しみになる。 先輩は運動部で目立っていて、俺は本ばかり読んでいる。 今でも住む世界は違うと思う。 ただ、前より少しだけ、その世界が近くなった。 ある日の放課後。 委員会へ向かおうとして渡り廊下を歩いていると、前に先輩がいた。 声をかけようとする。 「せん――」 やめた。 先輩の前に女子がいた。 二人きりだ。 女子は何かを一生懸命話している。 先輩は黙って聞いていた。 しばらくして、女子が小さな袋を差し出した。 あ。 これ、たぶん。 告白だ。 俺はあわてて柱のかげに隠れた。 盗み聞きするつもりはない。 でも今出たら、もっと気まずい。 少しして、先輩が頭を下げた。 女子も頭を下げる。 そのまま走っていった。 断ったんだ。 胸の奥で、ほっとした。 そのあとすぐ、自分で嫌になった。 何安心してるんだよ。 先輩が誰と付き合ったって、俺には関係ないだろ。 でも。 あの子の気持ちは、すごくよく分かる。 あんな先輩を好きになったら、言いたくなるよな。 俺だって言えるなら―― 「もしかして見てた?」 「うわっ!」 すぐ横から声がした。 先輩だった。 「す、すみません!」 「なんで謝るの?」 「いや、その、隠れて見てたみたいになって」 「別にいいよ。たまたまだろ?」 「はい」 先輩はいつもと同じだった。 さっき告白されたばかりなのに。 「これから委員会?」 「はい」 「俺も本返したいから、一緒に行こ」 「はい」 二人で歩き出す。 何を話せばいいのか分からない。 さっきのことに触れていいのかも分からない。 先輩の方から口を開いた。 「ねえ」 「はい」 「好きな人いる?」 「え?」 思いきり先輩を見た。 「そんな驚く?」 「だ、だって急に」 「さっきの見られたから、なんとなく」 「俺ですか?」 「うん」 いる。 目の前にいる。 でも言えるわけがない。 「その……」 どうする。 いないって言う? それもうそだ。 いるって言ったら、誰か聞かれるかもしれない。 「答えにくかったらいいよ」 「すみません」 「だから謝らなくていいって」 先輩が笑う。 少し歩く。 先輩の足が止まった。 俺も止まる。 「じゃあ俺から言う」 「え?」 「俺は、好きな人いるよ」 胸の奥が沈んだ。 そりゃ、いるかもしれない。 先輩くらいかっこよかったら、好きな人くらいいる。 「そうなんですね」 ちゃんと普通に言えただろうか。 「うん」 先輩が俺を見る。 いつもより真面目な顔だった。 「お前」 「……はい?」 「俺、お前が好きなんだ」 何を言われたのか分からなかった。 先輩の口が動いた。 声も聞こえた。 でも意味が頭に入ってこない。 俺? 先輩が? 俺を? 「……え?」 やっと声が出た。 先輩が少しだけ顔をそらした。 「ごめん。急すぎたよな」 耳が赤い。 先輩でも、こんな顔するんだ。 「本当はもう少しちゃんと言おうと思ってたんだけど」 「……」 「さっき聞いたら、好きな人いるみたいだったから」 先輩が困ったように笑う。 「急に焦った」 「え」 「だから、今言わないと無理だと思って」 先輩も緊張している。 そのことが分かった瞬間、止まっていた頭が急に動き出した。 「俺、本ばっかりですよ」 「知ってる」 「運動とか全然できないし」 「それも知ってる」 「先輩、もっと……その、いるじゃないですか」 「誰が?」 「かわいい人とか、人気ある人とか」 「いるけど」 「じゃあ、なんで俺なんですか?」 先輩は少し考えた。 「話してて楽しいから」 「……それだけ?」 「それだけじゃ駄目?」 「いや」 「本の話してるとき、すごいうれしそうだし。おすすめした本を俺が読むと、次の日すぐ感想聞きにくるし」 「それは……」 「あと、廊下ですれ違うと、絶対一回こっち見る」 「見てないです!」 「見るよ」 「見てません」 「じゃあ俺の勘違い?」 言えなくなった。 見ている。 かなり見ている。 先輩が笑った。 「そういうとこも好き」 また言われた。 今度は、本の話じゃない。 胸が苦しいくらい鳴っている。 「付き合ってほしい」 先輩が言った。 少し間を置いて、 「駄目かな?」 その言い方が、思っていたよりずっと弱かった。 いつも余裕があるように見える先輩が、俺の返事を待っている。 考える必要なんてなかった。 「はい」 「……はい?」 「付き合います」 「ほんと?」 「はい。もちろんです」 先輩の顔がぱっと変わった。 「よかった……」 大きく息を吐く。 「緊張した」 「先輩も緊張するんですね」 「するよ!」 思わず笑った。 先輩も笑う。 その瞬間、ふと思った。 俺たち、付き合うんだ。 先輩と。 男同士で。 今まで考えたこともなかったことが、一気に現実になった。 「先輩」 「ん?」 「一個、聞いていいですか?」 「いいよ」 「俺たち、男同士ですけど……先輩は、それでいいんですか?」 言ったあと、少し怖くなった。 先輩は意外そうな顔をした。 「いいから告白したんだけど」 「あ……」 「俺、お前が好きなんだよ」 また胸が鳴る。 何回言うんだ、この人。 「そっか」 「うん」 「じゃあ……いいです」 「何が?」 「俺も、先輩が好きなので」 今度は先輩が黙った。 「……それ、もう一回言って」 「嫌です」 「なんで?」 「恥ずかしいからです!」 先輩が笑う。 俺も笑った。 二人でまた図書室へ向かって歩く。 でも、今までと同じようには歩けなかった。 気になる。 横に先輩がいる。 さっきまでだっていたのに、急に近く感じる。 付き合うって、何するんだろう。 手をつなぐ? デート? いや、急にそんなことできるのか? 考えていたら、先輩がこっちを見た。 「どうした?」 「いや、その……」 「うん」 「付き合うって、俺、何したらいいですか?」 先輩が止まった。 「え?」 「いや、だから。恋人になったら何するのかなって」 「……」 先輩が真剣に考え始めた。 しばらくして、 「ごめん。俺も分かんない」 「先輩もですか?」 「俺も初めてだよ」 なんとなく、もっと何でも知っていると思っていた。 先輩だから。 でも、そうじゃないらしい。 そのことが少しうれしかった。 「じゃあさ」 先輩が言った。 「まず、二人のときだけ下の名前で呼ばない?」 「え」 「恋人っぽくない?」 想像する。 先輩を下の名前で呼ぶ。 無理だ。 「……できません」 「早くない?」 「恥ずかしすぎます」 「俺だって恥ずかしいよ」 「じゃあやめましょうよ」 「それは嫌」 「なんでですか」 「呼んでほしいから」 そう言われると困る。 図書室に着いた。 幸い、中には誰もいなかった。 先輩が返す本をカウンターに置く。 「今なら二人だよ」 「今やるんですか?」 「いつやるの?」 「心の準備が」 「名前呼ぶだけだって」 「先輩は簡単に言いますけど」 「じゃあ俺から」 「え」 先輩が俺の下の名前を呼んだ。 びくっとした。 何度も聞いたことがある自分の名前なのに、先輩に呼ばれると全然違って聞こえる。 胸の奥がきゅっとする。 「ほら。次」 「……無理です」 「俺だけずるくない?」 「分かりましたよ」 一度、息を吸う。 先輩の下の名前を頭の中で言う。 いつも「先輩」だった。 口に出したことなんて一度もない。 「……先輩」 「それ名字でも名前でもないじゃん」 「分かってます」 もう一度。 今度こそ。 小さな声で、先輩の下の名前を呼んだ。 先輩が笑った。 すごくうれしそうに。 「もう一回」 「嫌です」 「なんで?」 「今日は一回です」 「少なっ」 「慣れたら増やします」 「じゃあ早く慣れて」 「無茶言わないでください」 二人で笑う。 次の日。 廊下の向こうから先輩が歩いてきた。 友達と一緒だった。 目が合う。 「おはようございます、先輩」 「おはよう」 いつもと同じ。 すれ違う。 でも、そのあと先輩が少しだけ振り返った。 俺も振り返っていた。 目が合って、二人とも笑う。 学校では今まで通り「先輩」。 でも二人きりになったら、俺だけが呼べる名前がある。 それを思うと、今日の放課後が少し楽しみになった。 ** 名前で呼んで (完)

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