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第5話

 東の窓から、冷たい朝日が差し込んでいる。  ベッドに裸で横たわっていたニコラだったが、寒さは感じなかった。上から毛布をたっぷりと掛けられ、顔の右側は柔らかい枕に沈んでいる。沈んでいない方の目で辺りを見た。天井も壁も木材で、床はフローリング。ベッドのそばにはサイドテーブルとライト、ソファの背にはバスローブが掛けられている。壁際には浴室へ続く扉と、一階へ降りる階段もある。  スピノーネの姿はない。  だが、一階から足音が聞こえてきていた。  温もりへの惜しさを振り切り、ニコラはのそのそと毛布から這い出る。身体はまだ重いが、熱っぽさや痺れはなさそうだ。ぼんやりとした頭で昨夜の記憶を辿るが、彼を最後に抱き締めてからの記憶がない。また気を失ったのか、眠り込んでしまったのか――ふと腕を見ると、そこには傷口を保護するための小さな絆創膏が貼られていた。ニコラはそれを見た後、ベッドから降り、ソファからバスローブを取って羽織った。その時、座席に置かれた青いシャツと黒のスラックスに気づく。きっちりと畳まれたそれからは、清潔な洗剤の香りがした。まずは自分の身体を清めなければ。寝室の隣の浴室でシャワーを浴び、脱衣室で身体を拭きながら洗面台へ近づく。鏡の後ろが戸棚になっていた。何気なく手を伸ばし、ふと止める。 「あ」  首筋にぽつんと赤い痕がある。途端に、鏡に映る自分の耳や頬も赤くなった。 「くそ、スピノーネめ……」  鏡の中で、口の端を微妙な形に歪める自分を見ていられず、ニコラは戸棚を開け、マウスウォッシュのボトルを取り出して口をすすいだ。刺激的な味とミントの香りが口内で広がり、むせかけて涙が滲んだ。落ち着いてから浴室を出て、寝室へ戻ったが、まだそこにスピノーネはいなかった。服を着替えたニコラは、近くの窓から外の様子を窺う。曇天の下、雪に覆われた敷地と、その周りを取り囲む針葉樹が見える。雪は止んでいた。辺りに人の気配はない。ひどく静かで、他者の訪問を拒むような辺鄙な場所だった。  ニコラはスピノーネを探して階段を降りた。一階は広々としているが照明はついておらず、ほとんど空き家のようだった。ダイニングテーブルにも、リビングのソファにもカバーが掛けられ、暖炉もしんとしている。室内は地下のボイラー室から、セントラルヒーティングで温めているのだろう。  スピノーネの姿はない。  辺りを歩き回り、ニコラはキッチンへと入った。コーヒーの匂いすらしない。壁際のシンクの前に小窓があったが、見えるのは雪景色だけ。他の場所も見てみようと振り返った時、向かい側の壁に扉があることに気づいた。わずかに開いている。地下室への扉だろうか。 「スピノーネ?」  扉へ近づき、隙間から覗く闇に目を懲らした。地下へと続くコンクリートの階段が見える。耳を澄ませてみると、微かに音が聞こえてきた。それは人の声のようにも、機械の作動音にも聞こえる。食料を貯蔵する場所ではなさそうだ。  しばらく躊躇った末、ニコラは扉を開け、慎重に階段へ足を踏み出した。温かみのある木造の室内とは正反対の闇の中、自分の足音が大きく響き渡る。階段はかなり深くまで続いており、しばらく降りていくと、やがて扉のない入り口が見えた。そこから光が漏れている。 突然、男の絶叫が聞こえてきた。 「スピノーネ!」  ニコラははっとなり、慌てて中へ飛び込んだ。コンクリート打ちっ放しの殺伐とした空間が広がる。天井に一つだけあるライトが、部屋の中央へ光を注いでいた。光の中にはこちらに背を向けたスピノーネと、全裸で椅子の背へ手に拘束されて俯く男がいた。肩まで伸びた黒髪に見覚えがある。広場で自分達を襲い、ニコラに薬物を注射した男だ。両足も結束バンドで椅子の脚へ縛りつけられている。 「何してるんだ……」  自分が見ている光景に愕然としながらニコラは尋ねた。 「目覚めたんですね。気分はいかがですか?」  スピノーネは振り返らなかった。その静かな声音とは裏腹に、彼の背中からは寒い部屋の空気をさらに凍てつかせるような殺気を感じる。圧倒されてニコラが何も言えずにいると、俯いていた男が顔を上げた。 「……思い出したぜ。お前、『棘の犬』だな」  男の顔は原型がわからないくらいに腫れ上がっていた。目は片方が塞がり、鼻と口の周りには乾いた血がこびりついて、歯も何本か欠けているようだった。  スピノーネが男へ一歩近づく。 「ボスに私がいるとは知らされなかったか? 近づくなとも教えられなかったようだな」 「あぁ……だが噂は知ってるぞ。お前がドメニコとの契約に甘えた腑抜けの犬だとな!」 「私なりに努力しているんだ」スピノーネの口調は終始冷静だった。「低俗なドラッグで彼を汚したお前のことを殺さないよう、最大限努力している。だが何事にも限界はある。そうだろう? 取り返しがつかなくなる前に教えてくれ。ギデオン以外に、誰がこの件に関わってる?」 「どういうことだ?」ニコラは首を傾げた。 「追っ手の質の変化が気になります。私達はかなりの距離を移動して、アメリカからも出た。しかしカナダに到着した途端、待ち構えられていたかのように再び襲撃を受けている。ダイナーでの襲撃の仕方を見ると、ギデオンがそこまでの知能犯だとは思えない。目立ち過ぎ、人員が多すぎる。逃走のために必要だったはずの車も大破させている。しかし二度目は違う。無駄な人員はなし、それぞれに役割が与えられ、逃亡のための車も用意していた。誰かが知恵を貸しているはずです」 「俺は何も知らねぇぜ」  男は馬鹿にするような笑みを浮かべた。その瞬間、スピノーネがゆらりと動いた。彼は腰を落とし、肩を男の顔より低い位置まで降ろすとすかさず右手を突き上げて彼の下顎を殴った。男は顔を仰け反らせ、椅子ごと後ろへ倒れ込む。 「スピノーネ!」 「あなたは見なくてもいい!」  駆け寄ろうとしていたニコラは、スピノーネの怒号にぴたりと足を止める。するとスピノーネは倒れた男の椅子の背を掴むと、元の位置に戻し、間髪入れずまた男の顔を殴りつけた。男の口から血が噴き出し、コンクリートの床に椅子がぶつかって大きな音を立てる。 「もうやめろ! 充分だ!」耐え切れず、ニコラはスピノーネの肩を掴んだ。「ここまでしなくていいだろ! 本当に口が聞けなくなったら、どうするんだ!」 「二階へ戻っていてください」抑揚を欠いた、冷たい口調で言われた。「これが終わったら、食事を持って行きます。心配いりません。ここに来て以来、彼とのお喋りは毎日の日課なんですよ。きりがいいところで切り上げて、またあなたの元へ戻ってきますから」 「ずっとそうしていたのか?」  ニコラは愕然とした。薬に苦しむ自分を宥めたあの手も、額に貼りついた髪を払ってくれた指先も、熱を上げて汗ばむ身体を抱いたその手も、男を痛めつけた手だった――血に汚れた手で、あんなふうに触れていたのか? 「ドメニコのせがれぇ」  しゃがれた声にニコラが視線を落とすと、顔の右側を床に押しつける体勢で倒れている男がぎょろりと目を開いていた。切れた口の端を吊り上げて笑っている。 「お前のことは聞いているぜ。ボスの言っていた通りだ。見た目は父親そっくりだが、蓋を開けると、くそったれな平和主義者だな」 「俺をどう思おうと構わない。ドメニコの息子だろうが、出来損ないだろうが、くそったれな平和主義者だろうが、それはお前達の世界の基準から見たものだ。どうでもいい。だからさっさと知っていることを話せ。でないと……もっと大変なことになるぞ」 「大変なことだと? ふははは! 他人事だと思ってるな、くそガキ!」男は血に染まった歯を剥き出して笑った――かと思うと、突然怒鳴った。「いいか、よく聞け。この状況はな、他の誰でもない、お前が作り出しているんだ。知ってるか? 今、ニューヨークのスティヴァレッティ・ファミリーは劣勢だ。ギデオンはあと数日で片をつける気でいる」 「劣勢だと!」次にスピノーネが叫んだ。「でっち上げだ」 「そう思うのは勝手だ。だが、現実はそうなのさ。よほど逃げるのに必死で、戦況を確認していなかったんだな」男はスピノーネを嘲笑うと、ニコラへ視線を戻した。「お前が逃げ続けるほど、この戦いは長引く。スティヴァレッティ家の人間である以上、災いはお前にも平等に降りかかってくることはわかっていたはずだ。お前はそれから逃げ、いざ攻撃を受けても反撃しようとしない。おかげで何人の血が流された? 全部お前のせいさ!」  お前のせい。  ニコラは言葉を失う。目を背け続けてきた事実が、男の血と唾液に塗れて目の前に吐き出された。  フラッシュバックが起こる。  十歳の火事の夜。ダイナーでの襲撃。旧市街での襲撃。  守り切れず、もどかしく、指の隙間をこぼれ落ちていったもの達。 「あぁ、お前の言う通りだ」ニコラは俯く。「俺の周りでは大勢の人が血を流してきた。俺のせいだ。だから――それを止めるには、俺がお前達を排除するしかないな」  頭の中で痛みが暴れまわり、やがてすぐに冷たくなった。この感覚は「パピルス」でトラブル対応をしていた時に何度も体験している。しかしニコラは初めて、この揺るぎない冷静さの芯には怒りがあるとわかった。青く鋭く燃える炎は、赤い炎よりも静かでずっと熱い。  ニコラは男の顔を覗き込んだ。白髪がカーテンのように降りてきて、辺りが暗くなる。  影の中で、男の腫れていない方の目が見開かれていく。 「は……お、お前……急に……」 「教えてくれ。ギデオンは誰を雇った?」 「あ……それは……その……」 「時間がない。そう教えてくれたのはお前じゃないか」  ニコラは瞬きをするのも惜しかった。瞬き一つが、この男への情けになる気がした。絶対に目を離してやらない。こちらが欲しい情報を喋るまでは。 「ギ、ギデオンは本気でスティヴァレッティ・ファミリーを潰そうとしている。だから、法外な金額を払ってまで奴を雇ったんだ。奴が俺達に指示を出して……お、俺はただ、指示に従っていただけで――」 「俺の質問を覚えているか?」  苛ついて男の言葉を遮ると、すぐ彼は口をつぐみ、血と唾液を飲み下すと、唇を震わせながら答えた。 「バルカだ――『不寝の獅子』を雇ったんだ」 「何! くそっ!」  ニコラははっと我に返った。怒鳴ったのはスピノーネだった。振り返ると、彼は片手で口を押さえ、見開いた目をきょろきょろと忙しなく動かしている。頭の中で、ものすごいスピードで様々な考えを巡らせているようだった。その焦り方に、ニコラは尋常でないものを感じ取る。 「誰なんだ。バルカって」 「バルカ・ブラッドリー。元傭兵の殺し屋です。奴は眠らず、追随の手を緩めず、標的を決して休ませない」スピノーネは片手を口から離すと、険しい顔のまま、ベストの内側からメリケンサックを取り出す。「これは彼から与えられました。バルカは私に殺しを教えようとした、傭兵時代の私の師です」  隠れ家の裏手には森が広がっており、少し奥に進むと雪に覆われた丘があった。  スピノーネはコートとブーツを身につけ、裸の上半身を縄で縛った男を追い立てながら、その丘を登っていく。彼の進むスピードは異様に速く、ニコラは息を切らせながら彼らを追いかけた。呼吸の度に、鼻先や口が凍りつきそうだ。 「なぁ、どうしたんだ! 急に外へ出るなんて言い出して……」 「私もあなたも、早急に準備しなければいけません」  スピノーネの声が遠くなっていく。見ると、彼と男の姿が丘の向こうへ消えていった。慌てて追いかけると、木々の連なりが開けた広い場所に出る。そこでスピノーネが待っていた。彼から少し離れて、広場の中央あたりに男が蹲っている。ニコラは息を整えながらスピノーネに近づいた。 「何をするつもりだ?」 「あなたには銃の扱いを学んでもらいます」  そう言ってスピノーネがコートを脱いだ。ベストの上のショルダーホルスターが露になり、彼の両脇には銃が一丁ずつ装備されていた。スピノーネはそのうちの一丁を差し出してきた。黒くてごついハンドガンだ。 「無理だ」 「無理でも、あなたはこれから自分の身を自分で守らなくてはいけなくなる」 「どういう意味だ?」 「私では対処しきれない災いがやって来るということです」  有無を言わせぬ口調だった。ニコラが何も言えずにいると、スピノーネが手を掴んできて無理矢理に銃を握らせてくる。ニコラはその重量感に怯み、スピノーネが手を離しても身動きが取れなかった。せめて手元から目を逸らし、助けを求めてスピノーネを見る。 「……バルカって男はそんなに危険なのか?」 「私は彼から戦い方を教わりました。そして今まで一度も勝てたことがない」 「でも元は師で、仲間だったんだろ。まさか本当に殺しになんて――」 「バルカは傭兵を引退して殺し屋になった後、かつての部隊メンバーの暗殺依頼を受けました。おそらく雇い主が、彼の忠誠心を試したかったのでしょう。バルカは多額の報酬と引き替えに依頼を受け、その三日後、世界各地にいたメンバー達は全員消されました」 「そんな……お前は逃げ切ったのか?」 「私は殺しのリストに入っていなかったんです。バルカに見放され、部隊を追い出されてから、もうずいぶんと時間が経っていましたから」  スピノーネはホルスターからもう一丁銃を取り出し、慣れた手つきでスライドを引いた。安全装置を外すかちんという音が鳴り、腕を真っ直ぐ前へ伸ばすまであっという間だった。彼が銃を構えているという認識が間に合わないほどだった。  その銃口の先に、あの男がいた。  はっとなったニコラが何か言う前に、トリガーが三度引かれた。  乾いた音が三発響く。ニコラは反射的に目を閉じた。耳の中がびりびりと痛む。硝煙の匂いが漂ってきた頃、か細い悲鳴が聞こえて目を開けた。男は雪の上に蹲って震えている。無事だった。銃弾は彼の周りを囲うように地面へ撃ち込まれ、周囲の雪に三ヶ所穴が開いていた。その中心で男は失禁し、身体を小さくさせている。スピノーネは銃をホルスターに戻すと、雪の上に脱ぎ捨てていたコートを拾って歩き出した。男のところまで行くと、その身体にコートをばさりとかける。  ニコラは言葉を亡くし、ただその場に立ち尽くしていた。  スピノーネは白い息を吐きながら戻って来ると、後ろへ回り込んできた。ニコラは右手だけで銃を持っていたが、彼は左手も沿わせるよう促してくる。怖くなって振り返ろうとした。 「スピノーネ、俺は……」 「集中して。でないと、指が吹き飛びますよ」  真剣実を帯びた声に、脅しではないと気づいたニコラは彼の顔を見られなくなった。腕を真っ直ぐ伸ばすよう支えられる。ニコラの顔のすぐ隣で彼の吐息が白く染まった。 「いいですか。銃は両手で持つと安定します。グリップをしっかり握って。そうです。撃たない時は、人差し指をトリガー上のフレームへ。撃つ時はスライドを引いて銃弾を薬室へ移動させます」  ニコラはスピノーネに言われるがまま、右手に重ねていた左手をスライドへと移動させた。一度スライドを引いてみたがびくともせず、もう一度力を込めて引いてみると、銃身の中でがちゃんと音が聞こえた。スピノーネが隣で頷く。 「そうです。腕は真っ直ぐ構えて、トリガーに指をかけてください」  ニコラはトリガーに指をかけたが、その先にコートをかぶった男が見えて、さっと全身の血の気が引いた。呼吸が早くなり始めるが、スピノーネの口調に変化は見られない。彼はこちらの背中に胸をぴたりと寄せている――呼吸の変化には気づいているはずだ。 「銃身を撃つ対象へ真っ直ぐに向け、視線もぶらさないように。グリップを強く握りすぎたり、トリガーを引く時に力を入れすぎると弾道がずれます。撃った反動で強い衝撃が来るので、構えた腕は絶対にぶれないようにしてください」 「駄目だ、本当に駄目だ……」手の震えが銃身に伝わり、かちかちと鳴り始める。 「彼を見て。あの男はあなたを襲い、広場にいた人々も巻き添えにした」 「わかってる。でも俺は……」 「あなたが平穏を愛しているのは知っている。だけどそれを奪われた今、取り戻すためには力が必要なんです。同情やモラル、恐怖心は命取りになります」  言い返す言葉が見つからず俯きかけた時、顎を下から掴まれて強制的に正面を向かされる。その力は痛みを感じるほど強く――そんなことをされるとは思っていなかった――途端にニコラの頭の中は白くはじけ飛んだ。 「俺はお前達のようになりたくない!」  叫んだ瞬間、いきなり肩を掴まれて後ろを向かされる。ニコラの両手に持った銃の先がスピノーネの胸に突き立った。しかし彼に狼狽えた様子はない。その目はあまりにも凶暴な影を纏ってこちらを睨みつけている。 「あなたにとって、私やドメニコ様、ファレーナ・ダストの連中が怪物に見えるのは当然です。ですが今、怪物達の優劣が大きく変わりつつある。この状況が理解できないほど、あなたは愚かではないはずだ――あなただけではない。ドメニコ様も危ないんです!」  焦りが滲んだその声はニコラの身体を貫き、もっと遠くのどこかで響いているように聞こえた。声の残響が消える頃、スピノーネもそれに気づいたらしい。彼ははっと目を見開き、ニコラの肩から手を離した。解放されたニコラは銃を取り落とし、やがて膝から地面に崩れ落ちる。白い息を吐きながら、互いにしばらく無言になった。 「……ニューヨークへ行きたいんだろ」  ニコラは呟いた。地下室での彼の様子を覚えている。それまで冷静だった彼が焦り、とうとう声まで荒げたのだ。そうなったのは「不寝の獅子」バルカの関与を知らされた時と――ニューヨークでの戦況を知った時だ。 「お前は本当はニューヨークへ行って、ドメニコに加勢したいんだ。ボスは彼だからな。銃も撃てない出来損ないの息子の相手をするなんて、もううんざりなんだろう」ニコラは立ち上がる。「行けばいい。事態が片付けば、俺のお守りをする必要もなくなる。俺は一人で身を隠す」 「一緒にいないとだめです。最後はバルカに見つかってしまいます」 「それでもいい」  近づいてきたスピノーネを押し退け、ニコラはコートをかぶっている男へと近づく。このままでは凍死してしまう。警察に引き渡すまでは、隠れ家へ閉じ込めていた方がいい。  するとスピノーネが後ろから追いかけてきて、ニコラの行く手を阻んだ。 「ニコラ」 「やめろ」 「私を見てください」 「嫌だ」 「話を――」 「何を話すことがあるんだよ! よくわかっただろ! 諦める時が来たんだよ!」  スピノーネは口を中途半端に開けたまま固まる。何を言えばいいのか、わからなくなったのだろう。ニコラも、彼にかけてやる言葉を思いつけなかった。結局、通り過ぎて男へ近づく。 「おい、移動するぞ。起きるんだ」  男からの反応がなかった。髪や爪先はコートからはみ出て見えているが、顔は完全に隠れて見えない。彼の身体からは、寒さに対する震えさえ消えていた。  ニコラはコートを掴み上げた。  露になった男の目は見開かれていて、口も大きく開いている――まるで喉に何かを詰まらせて、それを吐き出そうと必死にもがいているかのように。そして実際、彼の首の辺りが歪に膨らんでいた。内側からの圧力で皮膚が伸びて薄くなり、下の様子が透けて見えるようだ。ニコラはそこに赤い光を見た――同時に、ぴーというくぐもった機械音が聞こえてきた。 「ニコラ!」  飛びついてきたスピノーネの声が、爆発音に掻き消される。雪の上に押し倒されたニコラは、頬や額に焼けつくような熱風を感じて、思わず彼の胸に顔を押しつけた。それを促すようにスピノーネの手が後頭部を押さえる。二人で雪に埋もれ、やがて爆風が収まった頃、ニコラは震えながら顔を上げた。四方八方に赤黒いものが飛び散っている。それが男の肉片だとわかって呆然としていると、身体を引っ張り起こされた。 「くそ、こんなに早いなんて」  スピノーネはニコラの前に立って銃を構え、素早く辺りを見回す。  その時、丘の下や広場周辺の森から、低いエンジン音が迫ってきた。唸り声のようなその音は徐々に数を増やしながら近づいてくる。すると正面の森の中から、一台のスノーモービルが滑り出てきた。ハンドルを握っていたのは黒いニット帽をかぶり、たてがみのような白いファーがついた黒いモッズコートを着た大柄の男。肩にはアサルトライフルを提げている。男はスノーモービルを停めると、顔下半分を覆っていた黒いフェイスマスクを引き下ろした。白い息が吐き出される。年齢を感じる彫りの深い顔と、濃い隈のついた目。その目が、何か眩しいものを見るかのように細くなる。 「よぉ、スピニー・ボーイ。しばらくだな」 「バルカ……お久し振りです」  丁寧な口調とは裏腹に、スピノーネの声には動物じみた唸りが含まれていた。  一方、バルカは彼に対して微笑んでいた。しかしその笑みには、加虐から楽しみを見出した者の狂気がありありと現れている。少し鋭く見える犬歯が、口の端から覗いていた。 「堅苦しい挨拶はよしてくれよ。俺はお前と再会できることが楽しみで、眠れなかったんだぜ」 「相変わらずですね。どうしてここが?」 「敵を捕らえた時、洋服を剥ぎ取るだけじゃ足りないぞ。体内の確認を怠ったな」  バルカは血が染み込んだ爆心地を指差した。男の首から下の部位がまだ残っている。近くの雪にも肉片がめり込んでいて、そこには骨と、小さなチップの欠片らしきものが覗いていた。 「発信器ですか」とスピノーネ。 「今時は常識だぞ。ペットにもチップを入れる時代だ。こいつに入れたのは遠隔で爆破できる特別仕様のものだ。本人には爆発するとは知らせてない。サプライズだ」  バルカは平然とそう言ってのけ、コートの内ポケットから煙草の箱を取り出す。一本咥えて火をつける頃、さらに四台のスノーモービルが広場へと現れ、ニコラとスピノーネを取り囲んだ。運転している四人は白いダウンジャケットと、同色のフルスモークヘルメットをかぶっている。表情の見えない彼ら全員がサブマシンガンを携帯していた。 「さて、さっき爆発した奴から色々と聞いているとは思うが――」バルカは旨そうに煙草を吸い、白い息と煙を吐き出した。「簡潔に言おう。ドメニコの息子を渡せ」  バルカの目がニコラを捉える。ニコラがびくりと震えると、彼は宥めるように片手を上げた。 「まぁ、そう怯えなくていい。ニコラ、だったな? ニューヨークに到着するまで、お前は丁重に扱うと約束しよう。いたずらに傷つけたりしないし、そこで爆死した野郎みたいに薬を打ったりもしない。本当によくここまで頑張ったな」  ニコラはバルカを見つめたまま言葉を失った。彼の声はまるで催眠術だ。ついさっきまでニコラが受け入れかけていた死への恐怖を蘇らせたと共に、そこへ誘う甘さも兼ね揃えている。  するとスピノーネが、彼の視線を断ち切るように前へ立ちはだかった。 「彼は渡しません。ファレーナ・ダストが解体されるまで、彼を守るのが私の仕事です」 「自分の命より命令の方が大事か」バルカは眉間に皺を寄せ、再び煙草を吸った。穂先が赤く光り、やがて消える。「悲しいね。なら、殺すしかないか」 「最初からその気で来たんでしょう」 「心外だな。古い友を殺すと心が痛むんだぞ。経験があるからわかる」 「金のためでしょう」  スピノーネが言い返すと、バルカは不機嫌そうな表情を一変させてにっこり微笑んだ。 「よくわかっているじゃないか! そうさ。あのギャング坊やには、なかなかいい金額を前払いしてもらったからな。この仕事を遂行して残りの金を手に入れたら、老後の生活は安泰だ」  そう言うとバルカは煙草を指に挟み、その手をさっと上げる。  同時に、周囲の四つの銃口がニコラとスピノーネを捉えた。  スピノーネの視線はあらゆる場所を巡り続けているが、未だ突破口を見いだせずにいるようだ。彼の背後に立つニコラは、本当に諦める時が来たのだと悟って俯いた。その時、視界の端に黒いものを見つける。それが何なのかわかった瞬間、諦めの下に押し隠していた本能が目覚める――ニコラはスピノーネを押しのけて前へ進み出た。 「仕事の条件は生け捕りのはずだ!」 雪に塗れた銃のトリガーに指をかけ、逆さまにした銃身を胸に添わせる。冷たい銃口を自分の顎下に突きつけて仁王立ちになった。「それ以上近づいてみろ。自分を撃ち抜いて死んでやる」  声も手も緊張でどうしようもなく震えていたが、それでもニコラは真っ直ぐバルカを睨みつける。彼は驚いたように少し目を開いていたが、やがてその目を細めて笑った。 「ははは、先手を打ったな、ニコラ。大したもんだ。噂で聞いていたよりずっといい面構えをしているじゃないか。さぁ、お前達、銃を降ろせ」  バルカは再び煙草を咥え、部下達に向かって手を降ろす。部下達は命令に従った。  ニコラが目を離さずにいると、彼は何か考えるように視線を巡らせ、再び口を開いた。 「そうだな。確かに仕事はきちんとやり遂げないとな。旧友との再会をこのまま終わらせてしまうのも実は惜しかったんだ。どうだ、二人とも。俺が煙草を吸い終わるまで時間をやろうじゃないか。その間、どこに逃げてもいい」  二コラとスピノーネが何か言う前に、彼は煙草をまた一吸いし、口から煙を吐き出す。 「ほら、始め」  瞬間、ニコラはスピノーネに腕を引っ張られた。そのまま走り出し、スノーモービルに乗った部下達の横を通り過ぎる。彼らはフルスモークの面で、じっとこちらの動きを追っていた。

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